論語を楽しむ

論語を楽しみ、良識を豊かにするブログです。

第1回 論語を楽しむ。良識を豊かにする

本ブログの趣旨

論語を楽しむ。

そして、善き生き方について考え、良識を豊かにする。

それが本ブログの趣旨です。

 

モノ、コトと“善”

モノ、コトには、まず「事実」があります。

そして、その事実に基づいた「意味」があります。

そして、その「意味」に基づいた「意義」があります。

 

私たちはまず「事実」を正しく認識しなければなりません。

誤った事実ではなく、「真実」を認識しなければなりません。

「真実」を認識することを、ここでは“善”に含めることにします。

 

その「事実」に基づいて、私たちは、私たちの「関心」に応じた、様々な「意味」を認識します。

私たちの「関心」のひとつに「道徳的(倫理的)な関心」があります。

その「道徳的(倫理的)な関心」から「“善・悪”」という「意味」を認識します。

 

その「“善・悪”」という「意味」に基づいて、私たちは、私たちの「価値観」に応じた、様々な「意義」を認識します。

「価値観」は行動を促します。「どう行動するべきか」は「意義」のひとつです。

私たちは「意義」に応じて行動します。

その行動はコトとして、“善・悪”という側面から、その「意味」を評価することができます。

 

良識

以上に示した、””善・悪”が判断でき、”善”と評価できる行動を取れる能力のことを本ブログでは「良識」と呼びます。

その能力を持ち、”善”と評価できる行動を取る人を「良識を備えた人」と呼びます。

その能力をもう少し掘り下げてみましょう。

まず「真実」を認識する能力を掘り下げます。

その根本は、理性を正しく働かせる能力と言うことができます。

「事実の確実さ」、「論理的な整合性」などを理性を働かせることによって認識する能力です。例として、推論や科学的な検証をする能力が上げられます。

 

次に「道徳的(倫理的)な関心に基づく”善・悪”」を認識する能力を掘り下げます。

その能力には、先験的なものと経験的なものがあります。

私たちは生まれながらにして持つ”善・悪”の判断能力(良知)があります。

また、経験や学びによって修得した道徳的な”善・悪”の判断能力があります。

それらが「道徳的(倫理的)な関心に基づく”善・悪”」を認識する能力と言えます。

 

儒教の考え方を初学者向けに解説した『大学』では、「善き社会」の実現の根本を掘り下げれば「格物致知」に至ると説かれています。

格物致知とは、一言で言えば「モノ、コトを認識する能力を極めること」です。

「善き社会」の実現には、ひとりひとりが自らの「モノ、コトを認識する能力を極めること」が必要だということです。

その格物致知について二つのよく知られた解釈があります。

朱熹(しゅき 1130 - 1200)は「理性を働かせて真理を見極めること(究理)」に着目して格物致知を説きました。

王陽明(おうようめい 1472 - 1529)は「(人が生まれながらに持っている)良知を働かせて善悪を見極めること」に着目して格物致知を説きました。

本ブログでの良識は、その両方の格物致知を意識しています。

格物致知、良識は、モノ、コトを認識するための基本的な能力であり、人として持つべき基本的な能力と言えます。

 

良識と公教育

モノ、コトを認識するための基本的な能力は、当然、公教育の対象になります。

では、現代の日本の公教育ではどうでしょうか。

筆者の経験からは、「理性を働かせて”正解”を導く力」を養うことには時間をかけてきた、と思えます。しかし、「道徳的な”善・悪”を判断する力」を養うことができたとは思えません。

公教育がそうなっている主な理由として、以下の二点が考えられます。

まず、「“道徳的な善・悪”には客観性がないとみなされている」ということが考えられます。「客観的に正しいと言えないことを教えるべきではない」という声があるのではないでしょうか。

また、民の側には、「権力を持った側が示す道徳的な“善・悪”は彼らの都合のよい“善・悪”である」という警戒心があるのではないでしょうか。それは、歴史的な経験からもたらされる警戒心です。

その結果、今の日本では、公教育で道徳的な“善・悪”を判断する力を養うことは難しくなっているのではないでしょうか。

 

公教育で対応していなくても、大切な能力ですから、自分で養う必要があります。

道徳的な“善・悪”を判断する力を養う典型的な方法に読書があります。

特に、名作と呼ばれる文芸作品や古典は、国を問わず、長く読み継がれてきたことから、そこには、場所や時代に関係なく、多くの人々が共感できるものが織り込まれているとみなすことができます。

その共感は読者個人の主観によるものですが、時と場所に関係なく、多くの人々の主観が、同じように共感するということは、それは、客観的とまでは言わないまでも、それに近い、「今も、これからも共感できる」と確信できるものがある、とみなすことができます。つまり、間主観的に確信できるものがあると言うことができます。

間主観性に着目すれば、道徳的な“善・悪”には客観性がない、ということを気にかける必要はありません。

名作と呼ばれる文芸作品や古典を読んで道徳的な“善・悪”を判断する力を養いましょう。

それに適した典型的な古典に論語があります。

本ブログは、論語を読んで道徳的な“善・悪”を判断する力を養うことを助けます。

 

論語の注釈書と論語

論語の文は短く、説明的には書かれていませんので、昔から、専門家による論語の正統な解釈(注釈)の試みが為されてきました。

よく知られた論語の注釈書として、三国時代儒学者である何晏(かあん 196 - 249)等がまとめたとされる『論語集解(ろんごしっかい)』があります。古注と呼ばれています。

その後、南宋儒学者である朱熹論語の注釈書として、『論議集注(ろんごしっちゅう)』をまとめました。新注と呼ばれています。

この新注の影響は大きく、その後の多くの注釈書、現在、日本で見られる論語本の多くが、新注を参照していると言われています。

今の日本では、専門家の先生方が解釈する様々な論語本を手に取ることができます。

本ブログは、その中から、下村湖人『現代訳論語』を採用して鑑賞します。

 

論語の果肉」を味わう

下村は、『現代訳論語』の冒頭の「論語を読む人のために」の中で、次のような論語の読み方を勧めています。

引用開始:

論語」を読む者の心しなければならない重要な二点があるのである。

 その第一は、「論語」の言葉のあるものは、今日のわれわれの時代においては、文字どおりに受け容れられるものではなく、また強いて受け容れようとしてはならないということであり、その第二は、しかし、だからといって、「論語」をただちに時代錯誤の書として早計にすててしまってはならないということである。

(中略)

かりに「論語」から周代の色をおびていると思われる一切の表現を消し去って見るがいい。また、今日から見て少しでも時代錯誤だと思われる表現があったら、それをも遠慮なく消し去って見るがいい。そのあとに何も残らないかというと、むしろわれわれは残るものの多きにおどろくであろう。しかもそれらはすべて古今を貫き東西を貫く普遍の真理であり、そしてそれらの真理が、時代錯誤だと思われ、周代の考え方だと思われる表現の底にも、厳として存在していることに気づくであろう。

(中略)

かくて「論語」は周代の皮に包まれた真理の果実であるということが出来よう。われわれはその皮におどろいて果肉をすててはならないし、さればといって、皮ごとうのみにしてもならない。皮をはいで果肉をたべる、これが要するに「論語」の正しい読みかたなのである。

:引用終了

 

論語の果肉」を共に味わう

繰り返しになりますが、ある書物が「時と場所を越えて、多くの人々に長く読み継がれてきた」ということは、そこには、「(今も、これからも)人々が共感するものが織り込まれている」とみなすことができます。下村はそれを「論語の果肉」と呼びます。

 

本ブログでは、下村の勧めに従って、孔子が生きた時代(周代)のコンテキストを考慮に入れて、「論語の皮(周代の皮など)」を識別して、剥いて、今の私たちにとって意義のある「論語の果肉」を取り出して、味わいます。

今の私たちにとっての意義とは、主に「良識:道徳的な“善悪”を判断する力」を養う、という意義を指します。

 

本ブログでは、筆者が、論語の各章において、どう「論語の果肉」を取り出し、味わい、楽しんだのかを語ります。

読者が、それに共感して、楽しむ、あるいは、それをヒントにして自分に合った「論語の果肉」を取り出し、味わい、楽しむ・・・そうして楽しんでもらうことが、本ブログの趣旨です。

 

本ブログでは、下村訳も補足しますが、論語の解説をするものではありません。

あくまでも関心は、「良識」を養い、豊かにすること、特に「道徳的な“善・悪”を判断する力」を養うことにあります。

したがって、論語と「今の私たちの良識」をつなぐことが主な関心であり、論語の正しい解釈にはあまり関心を向けません。

節度を越えない範囲内で自由に(主観的に)解釈します。

 

今回はここまでです。

 

第2回 論語を楽しむための基礎知識

本ブログで論語を楽しんで頂くために、事前に知っておいて頂きたい知識について述べます。

 

孔子とその時代

論語の主役は孔子ですので、孔子とその時代に関する基礎知識を持っておきましょう。

孔子(前551〜前479)は中国の春秋時代(前770年―前403年)の人です。

約2,500年前に活躍した人です。

当時の日本で言えば、縄文時代弥生時代ですから、かなり昔の人です。

魯 (ろ) 国の曲阜(きょくふ)に生まれ,魯国に仕え、倉庫番や牛馬の世話係を担い、徐々に頭角を現わしていきます。

孔子の関心は学問にあり、「15歳で学問で身を立てることを志した」と語っています。やがて、孔子の広い学識は世に知られるようになり、孔子の元で学びたいと願う者がたくさん集まるようになります。その数3,000人とも言われています。

孔子が担ったものを現代の職業で言えば、官僚、学者、思想家、教育者、コンサルタントなどが挙げられます。

 

孔子が活躍したのは周王朝(BC1046-BC249)の時代です。

周は自らを本家として、姻戚関係にある者などを分家として、領土(国)を与え、封じて、王朝全体の秩序を保つという、封建制を採りました。

孔子が生まれた魯国もそのような国の一つで、周王朝の初代の王である武王の弟・周公旦(しゅうこうたん)の子である伯禽(はくきん)が封じられたことでできた国です。

封建社会の基本は、身分を明確にして、身分間の秩序を保つことで社会の秩序を保つことにあります。ところが、諸国の中から力を付ける国が次々と現われるようになり、身分と力関係のバランスが崩れていきました。また、国の中でも、王よりも力を付ける家臣が現われてきました。そうして、本家の周王朝は衰退に向かっていきました。

孔子が生きたのは、そういう、身分と力の逆転、いわゆる下克上が始まった時代でした。

 

孔子には理想とする社会がありました。それは、周王朝が始まった頃の社会でした。

周は、その前の商(殷)による神権政治、統治者の占いを基にした統治を改めました。

孔子は、当時の文献から、周の統治の方法、考え方を学んで、下克上で崩壊しつつある社会の秩序を、その方法、考え方で、立て直そうと努めました。

 

孔子は魯国で王の補佐をして、封建秩序の立て直しを試みましたが、有力な家臣達(三桓氏(さんかんし))と対立し、失敗しました。

そして、魯国を離れ、自分を活かしてくれる王を探しに、弟子達と諸国を巡る旅に出ました。孔子達を歓迎する国はありましたが、孔子を登用する国はありませんでした。

孔子達は目的を達成できずに、魯国に戻りました。

魯国に戻ってまもなく孔子は亡くなりました。

 

孔子の教えと論語

孔子の死後、弟子達はバラバラになりましたが、その中に、孔子やその有力な弟子の教えを伝えようと、彼らの記憶を基にして、それらを記録した弟子達がいました。その記録が論語の基になりました。

下克上の機運は勢いを増し、いくつかの有力な国が覇権を争う時代(戦国時代)に入りました。その中の秦の始皇帝が中国を統一しました。

秦は封建制を廃止して中央集権制を採用しました。

周王朝を正統とみなす孔子は、秦の正統性を否定する立場にありますので、始皇帝孔子の教えを継承する儒者たちを迫害しました。

始皇帝の死後、社会が乱れ、漢の劉邦が中国を統一しました。

漢は、秦とは逆に、孔子の教えを積極的に利用しました。

儒者を厚遇し、孔子の教えに関係する文献を整備し、儒教を国教にまでしました。

論語も漢の時代に整備され、現在の論語の基になりました。

論語の注釈(解釈)も整備されました。

論語のそうした背景を考慮すれば、論語に、漢王朝の統治に都合のよい解釈が織り込まれた可能性があることは容易に想像することができます。

 

漢王朝以降、論語に関して大きな影響があったのは宋の時代でした。

南宋儒学者である朱熹(1130 - 1200)がまとめた論語の注釈書『論議集注(ろんごしっちゅう)』は、その後の論語解釈の定番になり、現在、日本で見られる論語本の多くが、『論議集注』を参照していると言われています。

こうして、孔子の死後も、論語本を通して、孔子の考えは現代にも伝えられています。

 

論語の特徴

論語孔子の教えが記されたものですから「封建制の秩序」が重視されているという特徴を持ちます。そのため、論語は身分制社会の秩序維持に利用されてきました。

また、論語儒教の経典のひとつですから、儒教を学ぶための教科書として利用されてきました。

こうした背景から、論語を学ぶことは、封建社会/身分制社会を肯定することである、あるいは、宗教(儒教)を学ぶことである、という先入観を持たれてしまうこともあるようです。

論語は知的な道具ですから、その道具の使い方によってはそうなりますし、使い方によっては、そうではない使い方ができます。

本ブログでは「良識を養い、豊かにするための知的な道具」として論語を用います。

以下に示す論語の特徴があることにより、そのことが可能になります。

 

まず、孔子が重視したテーマが「善き社会、善き生き方」であるという特徴です。

そのテーマは、社会の制度や宗教的な信念に関係なく、今の私たちにとって、関心の深いテーマです。

もうひとつは、孔子は「根本(あるいは本質)」を説き、それに目を向けることの大切さを説いている、という特徴です。

孔子が説く「根本(あるいは本質)」の中には2500年経っても変わらぬものもあります。

こうした特徴は哲学の特徴として捉えることができますので、孔子は哲学者とみなされることがあります。論語を東洋哲学の哲学書とみなすこともできます。

 

とは言え、2500年前に生きた人の言葉ですから、当時の言葉の意味/意義を今の私たちにとっての意味/意義に写像するためには工夫が必要です。

本ブログの第1回で紹介したように、下村湖人は「論語の皮(周代の皮)を剥いて、論語の果実を取り出して、味わう」という方法を推奨しています。

本ブログはその方法を採用します。

それができるは、論語に次の特徴があるからです。

 

それは、論語の、ひとつの章、ひとつの文は短く、「余白」が大きいという特徴です。

意味/意義を取り出すためには、その余白を想像によって補わなければならないのです。

そのような余白を補う際に必要なのが「関心」です。

封建制の秩序に関心があるなら、その関心を満たすよう余白を補うことができます。

儒教に関心があるなら、儒教の世界観を満たすよう余白を補うことができます。

「今の私たちの良識」に関心があるなら、その関心を満たすよう余白を補うことができます。本ブログは、そのように余白を満たします。そうすることで、2500年前の言葉の意味/意義を現代に写像します。

 

その関心は主観的なものですから、人それぞれです。それぞれの想像力次第です。

そのような想像力を発揮して、論語の様々な解釈を楽しむことができるのです。

 

孔子の真意、つまり、孔子が何を考え、何を語ったのか、その客観的な事実が分かっていれば、その事実に基づいて解釈できるだろうと思う人もいるかもしれません。

論語の成立過程から分かるように、そもそも、論語に書かれている通りに孔子が語ったのかどうかという事実さえも分からないというのが現実です。

孔子の真意」という客観的な事実を論語自体から読み取ることは困難です。

 

そうした客観的な事実が大切な「関心」もあるでしょうが、本ブログが大切しているのは私たちにとって意味のある「論語の果実」であり、そのような客観的な事実は重要ではありません。仮に、「孔子の真意」であったとしても、それが本ブログの関心に沿わないものであれば、それを「論語の皮」として剥いて捨てます。

本ブログでは、そのような姿勢を採りながら、さしあたって、論語は「孔子の語った教えが記されたもの」とみなして鑑賞します。

 

2500年前の言葉の意味/意義を現代に写像する

2500年前の言葉の意味/意義を現代に写像するということを事例で補足します。

孔子が描いた理想社会は身分制社会における理想社会ですから、それをそのまま写像しても、現代の民主主義社会には意味/意義を持たせることはできません。

ですから、身分制社会固有の言及に関しては、「論語の皮」として剥いて捨てます。

下村湖人が言うように、それを捨てても「論語の果実」はたくさん残ります。

たとえば、孔子は、為政者、特に、統治者のあるべき姿や心がけなどを説きます。

身分社会においては、為政者は民とは身分上、明確に区別されていました。

現代の民主主義社会では、民が主権者であり、民が為政者を選びます。

そこで、孔子が説く為政者のあるべき姿や心がけなどを、為政者を選ぶ民(有権者)のあるべき姿や心がけとして変換して、今の私たちにとっての意味/意義に写像します。

そうして「論語の果実」を取り出します。

 

論語と宗教

本ブログでは、論語から宗教(ここでは儒教)を学ぶことはしない、ということについて補足します。

宗教の教えの特徴は「理性では認識できない世界」、たとえば、「死後の世界」なども教えに含めるという点があります。

その「死後の世界に対する世界観」がそれぞれの宗教の特徴にもなっています。

「死後の世界」の存在は理性では認識できませんので、肯定することも否定することもできません。宗教では、その宗教が持つ「死後の世界の世界観」を「正しい」と認識することを求めます。それが、その宗教の教えの前提になります。

本ブログが関心を寄せる「良識」はそのような前提を置きません。

もし、論語の中に、そのような世界観を前提とした言及があれば、それを「論語の皮」として剥いて捨てます。

 

たとえば、論語における「孝」という要素道徳は、祖先崇拝に基づく道徳です。

儒教の「死後の世界の世界観」が反映された要素道徳です。

したがって、本ブログでは、それに関係する部分を「論語の皮」として剥いて捨てます。そうして「論語の果実」を取り出します。

 

そもそも、孔子の関心は、現実に向き合い、実践することにあることが論語を読むと理解できます。

孔子は、弟子の子路から「(死後に)鬼神にどう仕えたらよいか」と聞かれ、「生きている間のことも分からないのに、死んだ後のことなど分かりようがない」と答えています。

そうした孔子の言葉を集めた論語は、実践の書としての側面を持つ書と言うことができます。

本ブログは、その側面に注目します。

 

今回はここまでです。

 

参考

孔子やその時代の情報は、多くの文献、ネットの情報を参考にさせていただきました。

代表的な情報源を挙げます。

・「コトバンク 旺文社世界史事典 三訂版「孔子」の解説

 

 

第8回 学而第一(5) 千乗の国を治むるには

学而第一(5)を鑑賞します。

本ブログを初めて読まれる方は、第1回、第2回を先に読んで頂ければと思います。

 

本章は、国を治める秘訣(統治の心得)が語られています。

民主主義、つまり、主権在民の社会においては、統治者を選ぶのは有権者です。

したがって、その秘訣(心得)は、今の私たちにとっては、「統治者を選ぶ際の有権者の心得」としてみることができます。

 

今回は、本章の鑑賞を通して、「統治者の心得/有権者の心得」について考え、「論語の果実」を見いだし、味わい、楽しみます。一緒に楽しんで頂けたら幸です。

 

学而第一(5)

 

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

子曰く、千乘の國を道(をさ)むるには、事を敬(つゝし)みて信、用を節して人を愛し、民を使ふに時を以(もっ)てす。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

 先師がいわれた。――

「千乗の国を治める秘訣が三つある。即ち、国政の一つ一つとまじめに取組んで民の信を得ること、出来るだけ国費を節約して民を愛すること、そして、民に労役を課する場合には、農事の妨げにならない季節を選ぶこと、これである。」

 

○ 千乘の国==侯国の意。乘は兵車で、天子は兵車萬台、諸侯は千台、大夫は百台を動かすという意味で、それぞれ萬乘の国、千乘の国、百乘の国というのである。孔子が特に千乘の国について語ったのは、その当時の中国が諸侯の封建時代だったからである。

 

はじめに、下村の訳を鑑賞します。

孔子が国を治める秘訣を三つ語っています。

国を治める秘訣と言っても、統治には様々な側面(View)があります。

孔子が本章で採り上げたのは、「民とどう向き合うか」という側面です。

孔子らしい着眼です。

そして、「民の信頼を得る、国費の使い道は民の生活に配慮する、労役を課す場合は民の生活に配慮する」を心がけること、と説きます。

孔子が説く秘訣を一言で言えば、「民のための政治をせよ」ということです。

 

孔子が生きた2500年前の中国は身分制の時代です。

統治者は、民を権力で従わせることができた時代です。

そのような時代に、孔子は、敢えて、「統治者は(立場の弱い)民のための政治をせよ」と説いていたのです。

「仁」を善き社会の根本とみなす孔子らしい説と言えます。

 

ここからは主観読みで鑑賞します。

本ブログの趣旨に従って「論語の果肉」を取り出して味わいます。

そして、実践に結びつく教訓を見いだします。

 

民のための政治と憲法

 

「民のための政治」が政治の本質なのであれば、民が自ら政治を行えばよいではないか、という考えに至ります。そうした考え方から民主主義が始まりました。

しかし、現実的には、民全員が直接、政治に携わることはできません。

したがって、政治を託す人を選ぶことになります。

政治を託す、つまり、統治を託すということは権力を託すということですから、権力の乱用を防ぐための方策が合わせて必要です。

その方策の典型が憲法です。

 

日本国憲法には次のような条文があります。

 

第二十五条〔生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務〕

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

本条の趣旨は「日本国の統治に携わる者は国民の生活に配慮した統治をしなさい」ということです。

日本国憲法には、本章で孔子が説く統治の秘訣の本質が織り込まれていると言えます。

 

善き統治の根本:善き有権者

 

孔子の時代には、民は統治者を選ぶことはできませんでした。

現代の民主主義の社会では、民は統治者を選ぶことができます。

 

日本では、民は直接首相を選べませんが、首相を選ぶ国会議員を選ぶことができます。

国会議員は有権者の意思によって選ばれますから、形式的には、国会議員の考え方や行動は、有権者の意思が反映されたものとみなされます。

したがって、もし、有権者の意思に反した国会議員の言行が見られる場合は、有権者は、自分たちの意思に反している旨の意思表示をする必要があります。

選挙の際には、より自分たちの意思に沿った政治家を国会議員に選ぶ必要があります。

民主主義においては、統治の根本にあるのは有権者です。

善い統治の根本は善い有権者にあります。

 

「君子は本を務む。本立ちて道生ず(学而第一(2))」という教訓があります。

それを本章に適用すれば、「民主主義の国において、善い国作りをしたいのなら、その根本である善い有権者作りをしなさい。善い有権者が多くなれば、自ずと国は善くなるでしょう。」という教訓になります。

 

その教訓に沿った取り組みのひとつに主権者教育があります。

欧州には、主権者教育が充実した国が多くあることが知られています。

その国のひとつにデンマークがあります。

デンマークは世界幸福度ランキングが高いことでも知られています。

2021年10月20日に、デンマーク大使館が次のようなツイートをしています。

デンマークにおける総選挙の投票率、80%を下回ったことがありません。子どもの頃から自分の意見を伝えお互いに議論して物事を決めていく民主主義にみんなが参加することで未来のデンマークという国・社会を作ることにつながると考えられています。」

 

ちなみに、日本では、令和3年10月に行われた第49回衆議院議員総選挙投票率は、55.93%でした

日本の有権者の政治に対する意識の低さが数字に示されています。

まずは、有権者の良識ある行動として、投票に行きましょう。

 

では、どのような政治家に投票するのが、有権者の良識と言えるのでしょうか?

本章で孔子が説く「秘訣」の中に、その良識を見いだすことができます。

 

善き統治者の心得と善き有権者の心得(良識)

 

本章の教訓を今の私たちに合うよう表現し直してみましょう。

 

教訓 国の統治者の心得

1. 国政に真摯に取り組んで民の信頼を得ること

2. 国費は民の生活のために使うことを最優先にすること

3. 税の負担は民の生活に配慮して決めること

 

それを、国会議員を選ぶ際の有権者の心得として表現してみましょう。

 

教訓 国会議員を選ぶ際の有権者の心得

1. 信頼できる政治家を選ぶこと

2. 国費を民の生活のために使うことを最優先にする政治家を選ぶこと

3. 税の負担は民の生活に配慮して決める政治家を選ぶこと

 

それぞれについて掘り下げてみましょう。

 

国会議員を選ぶ際の心得1:信頼できる政治家を選ぶ

 

孔子は、人間関係において、要素道徳「信」を特に大切にします。

本章でも、まず「信頼」を挙げています。

そして、その判断材料として「まじめに/真摯に」を採り上げています。

「まじめに/真摯に」は、判断材料としては抽象的ですので、国会議員を選ぶ際の心得として実際に役立つよう、より具体的な条件を採用したいと思います。

「言っていること(言)」と「行っていること(行)」に注目することにします。

それを、「良識」と「理」という視点から組み合わせれば、「信頼できる人物/信頼できない人物、の判断材料」にできます。

ここでは「信頼できない人物と判断する材料」としてまとめてみましょう。

 

信頼できない人物の言行

・言っていること/行っていることの意味が良識を欠くような人物

・言っていること/行っていることの意味が理に適っていないような人物

・行っていることが言ったことと一致していないような人物

 

国会議員には政権与党の国会議員と野党の国会議員がいます。

政権与党の国会議員は行政、立法などを担い、野党の国会議員は行政の監視、立法、特に、与党の法案に対する審議者の役割などを担います。

それぞれの役割における「言行」を観ることで、その国会議員が信頼できるかどうかを判断することができます。

今の日本には、平気でウソをつく国会議員もいます。

政治に関心を持てば、信頼できない国会議員を容易に見つけることができます。

 

本章の教訓に従えば、普段から政治に関心を持ち、政治家の言行に注目しておく必要があります。そして、もし、信頼できない政治家がいるようなら、そのような政治家を国会議員に選んではなりません。

それが有権者の良識です。

 

なお、日本の政治は政党政治なので、政治家は政党の方針に従って行動します。

その意味では、信頼できない政治家が所属する政党の政治家を国会議員に選んではなりません、という方が現実的かもしれません。

そのことも念頭に置きつつ、ここでは、政治家個人に焦点を当てることにします。

 

国会議員を選ぶ際の心得2:国費を民の生活のために使うことを最優先にする政治家を選ぶ

 

本章の二つ目の孔子の教訓は「出来るだけ国費を節約して民を愛すること」ですが、それを、そのまま今の日本に当てはめることはできません。

今の私たちにとって意義のある本質を取り出してみましょう。

そうすると、「国の経済運営」における「出費についての教訓」という本質を取り出すことができます。

では、「出費についての教訓」という観点から考察してみましょう。

2,500年前の中国に限らず、国力(国の生産力など)が小さい場合は、お金の信用の背景が脆弱ですので、むやみにお金を製造して使うことはできません。

したがって、国の出費(お金の供給)は、国力に応じた小さいものになります。

民の生活のための出費を優先させれば、自ずとその他の出費は節約せざるをえません。

それが、二つ目の教訓の主旨と考えることができます。

重要なのは、節約ではなく、民のための出費を優先させることだと捉えることができます。

 

国費の使い方について、孔子の考えがよく分かる章がありますので紹介します。

 

顔淵第十二(7)

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

子貢(しこう)政を問ふ。

子曰く、食を足し兵を足し、民は之れに信にす。

子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯(こ)の三者に於いて何をか先(さきん)ぜん。

曰く、兵を去らん。

子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何をか先ぜん。

曰く、食を去らん。古(いにしえ)より皆死有り、民は信無くんば立たず。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

子貢が政治の要諦についてたずねた。

先師はこたえられた。――

「食糧をゆたかにして国庫の充実をはかること、軍備を完成すること、国民をして政治を信頼せしめること、この三つであろう。」

子貢が更にたずねた。――

「その三つのうち、やむなくいずれか一つを断念しなければならないとしますと、先ずどれをやめたらよろしゅうございましょうか。」

先師――

「むろん軍備だ。」

子貢がさらにたずねた。

「あとの二つのうち、やむなくその一つを断念しなければならないとしますと?」

先師――

「食糧だ。国庫が窮乏しては為政者が困るだろうが、昔から人間は早晩死ぬものときまっている。国民に信を失うぐらいなら、饑えて死ぬ方がいいのだ。信がなくては、政治の根本が立たないのだから。」

 

孔子は政治の要諦の第一に「信」を挙げています。本章と同じです。

次に挙げるのが「食を満たすこと」です。

国費の使い道について、「食をみたすこと」を「軍備を満たすこと」よりも、優先しなさいと説いています。

この教訓も、本章の教訓も、その本質は、「国費を民の生活のために使うことを最優先にしなさい」ということです。

 

今の日本は、経済格差が拡がり、食事を満足にとれない子供達が増えています。

その子供達を救う目的で「子ども食堂」が全国に拡がっています。

この事実は、民、特に、子供達が経済的な理由で食事を満足にとれていないという状況が拡がっているということを示しています。

子ども食堂は政府が国費で運営しているものではありません。

ボランティアの善意によって運営されています。

一方で、政府は、軍事費の予算を増やしているという事実があります。

「食」よりも「兵」を満たすことを優先するという、孔子の教訓の真逆の事例を、今の日本に見ることができます。

 

本章の教訓に従えば、有権者は統治者(政府)の予算案について関心を寄せて、国費の使い道の優先度を見極める必要があります。そして、もし、民の生活のために国費を使うことを優先しない政治家が(与党であれ、野党であれ)いるようなら、そのような政治家を国会議員に選んではなりません。

それが有権者の良識です。

 

国会議員を選ぶ際の心得3:税の負担は民の生活に配慮して決める政治家を選ぶ

 

本章の三つ目の孔子の教訓は「民に労役を課する場合には、農事の妨げにならない季節を選ぶこと」ですが、それも、そのまま今の日本に当てはめることはできません。

「労役を課す」は、今の私たちの時代で言えば「税を課す」に相当しますので、税の負担についての教訓であるとみなすことができます。

「税の負担は、民の生活に配慮して決めなさい」ということです。

 

NHKが次のニュースを報じています。(2023.08.31)

「ヨーロッパ最大の経済大国、ドイツのショルツ政権は30日、経済対策として今後数年間で、日本円にしておよそ5兆円規模の減税を行うことを決めました。

ドイツはロシアのウクライナ侵攻の影響によるエネルギー価格の高騰などで消費が落ち込むなどして、景気が低迷していて政府に対策を求める声が高まっています。」

 

景気が落ち込み、民の生活が苦しくなったら減税するのは良識ある政策です。

 

日本では経済格差が拡がり、生活が苦しい民が増えています。

ところが、減税どころか、民の生活に大きく影響する税の増税を仄めかす政治家、その増税の正当性を主張する政治家がみられます。

ここでも、孔子の教訓の真逆の事例を、今の日本に見ることができます。

 

本章の教訓に従えば、有権者は統治者(政府)の「税に関する政策」について関心を寄せる必要があります。そして、もし、民の生活に配慮せずに増税を行おうとする政治家が(与党であれ、野党であれ)いるようなら、そのような政治家を国会議員に選んではなりません。

それが有権者の良識です。

 

有権者の良識が欠けていれば、良識を欠く政治家が国会議員に選出され、民のための政治をしなくなり、民の生活は苦しくなり、国は衰退します。

有権者は良識に基づいて、善い政治家を国会議員に選出する必要があります。

本章が示す良識は、そのような「有権者の良識」の典型です。

 

最後に、取り出した「論語の果実」を、行動を重視する孔子の意図を汲んで、「実践を強調した教訓として表現」し、「訳を意識した形式」でまとめます。

 

本章の教訓 国会議員を選ぶ心得:有権者の良識

 

政治に関心を持ち、政治家を見定めなさい。

 

見定めたなら、以下の政治家を国会議員に選んではなりません。

1. 信頼できない政治家

・言行が、良識を欠いたり、理に適っていなかったり、あるいは、言行不一致であるような政治家

2. 国費を国民の生活のために使うことを優先しない政治家

・国民の生活が苦しいときに、軍事費優先の予算を組む政治家

3. 税の負担を国民の生活に配慮せずに決める政治家

・国民の生活が苦しいときに、国民の負担が増す増税をする政治家

 

そうして、国民のための政治をする政治家を国会議員に選びなさい。

 

それが有権者の良識です。

 

今回はここまでです。

 

第7回 学而第一(4) 吾れ日に吾が身を三省す

学而第一(4)を鑑賞します。

本ブログを初めて読まれる方は、第1回、第2回を先に読んで頂ければと思います。

 

今回のテーマは「自分の行動を省みる(反省)」です。

 

今回は、本章の鑑賞を通して、「自分の行動を省みる意義」について考え、「論語の果実」を見いだし、味わい、楽しみます。一緒に楽しんで頂けたら幸です。

学而第一(4)

 

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

曾子(そうし)曰く、吾れ日に吾が身を三省す、

人のために謀(はか)りて忠ならざるか、

朋友と交まじわりて信ならざるか、

傳(でん)、習はざるか。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

 曾先生がいわれた。――

「私は、毎日、つぎの三つのことについて反省することにしている。その第一は、人のために謀ってやるのに全力をつくさなかったのではないか、ということであり、その第二は、友人との交りにおいて信義にそむくことはなかったか、ということであり、そしてその第三は、自分でまだ実践出来るほど身についていないことを人に伝えているのではないか、ということである。」

 

○ 曾子==孔子の門人、姓は曾(そう)、名は参(しん)、あざ名は子輿(しよ)。十六歳で孔子の門に入り、門人中の最年少者であつたが、篤学篤行の人として深く孔子に愛せられた。孔子の思想を後世に伝えた人としては門人中随一である。

○ 原文の最後の句「伝不習乎」を「伝えられて習わざるか」と読み、「教わったことを復習実践しない」という意味に解する説もある。

 

はじめに下村の訳を鑑賞します。

まず、「反省する」という言葉について少し補足しておきます。

ここでは、間違いを振り返る行為ではなく、間違わないようにすることを主眼に置いて、自分の行いを省みる行為を反省と呼びます。

 

曾子は弟子に向けて語っているのだろうと想像できます。

「こうしなさい」と指示、命令するのではなく、「自分はこうしている」とだけ語っています。聞き手の主体性を尊重しているからでしょう。

 

そうした曾子が伝えたかった教訓を一言で言えば、次の通りです。

「自分の行動を省みる(反省する)ことを習慣にしなさい」

 

そして、曾子自身はどのような行動を反省しているのかを示します。

・要素道徳「忠」の遂行

・要素道徳「信」の遂行

・学びの教訓の遂行

 

一言で言えば、「善き生き方」に関する行動を反省しています。

「善き生き方」は、孔子たちの関心の中心ですから、それは自然なことです。

 

ここからは、主観読みで鑑賞します。

本ブログの趣旨に従って「論語の果肉」を取り出して味わいます。

 

善き生き方という関心から自分の行動を省みるという習慣

 

私たちは、何か文章を書くとき、一通り書いた後で、誤字脱字がないか確認して、それらが見つかれば修正します。そうして文章の質を上げます。

何も確認しないときよりも、よく確認したときの文章の質が良くなるのは当然です。

そのような、自分の行動を振り返り、修正して、質を上げる、ということを、私たちは日常的に行っています。

 

こうした、成果物の質を上げるのも、広い意味での善き生き方と言えます。

本ブログでは、そのような広い意味での善き生き方を含めて、本章の教訓を見いだします。

 

教訓

善き生き方を実践しなさい。

そして、それが実践できていないことはなかったか、自分の行動を振り返りなさい。

そして、その振り返りを習慣にしなさい。

 

習慣にするなら早い方がよいでしょう。

その意味で、この教訓は、子供に対する躾に適した教訓と言えます。

 

教訓 躾

子供に善き生き方を教えなさい。

そして、それができていないことはなかったか、自分の行動を振り返るよう躾なさい。

そして、その振り返りが習慣になるよう躾なさい。

 

子供の頃に、こうした躾を適切に受けて、自分の行動を省みる習慣を身につけることができれば、良識の豊かな人間に育つだろうことは容易に想像することができます。

 

もちろん、善い習慣を身につけるのに遅すぎるということはありません。

大人になって身に付けても意義はあります。

 

善き生き方の基本中の基本

 

様々ある善き生き方の中から「何を省みるのか」が次の関心になります。

曾子は三つの例を挙げていますが、それはあくまでも曾子の関心によるものです。

 

習慣にするのですから「これが最も大切だ」という「善き生き方」を選びたいものです。孔子に質問したら何と答えるでしょうか。

実は、論語には、弟子の子貢(しこう)が孔子にそのことを尋ねている章があります。

孔子の答えに注目しましょう。

 

衛霊公第十五(24)

 

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

子貢問ふ、曰く、一言(いちげん)にして以て終身之れを行ふ可き者有りや。

子曰く、其れ恕(じょ)か、己の欲せざる所は人に施すこと勿(なか)れ。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

子貢がたずねた。――

「ただ一言で生涯の行為を律すべき言葉がございましょうか。」

先師がこたえられた。――

「それは恕だろうかな。自分にされたくないことを人に対して行わない、というのがそれだ。」

 

「恕の実践」というのが孔子の答え(教訓)でした。

下村は「恕」を次のように解説します。

「恕は自分の心を他におし及ぼすことで、真心からの同情による愛の実践という意。仁というに近い。」

つまり、「他者を思いやること」が要素道徳「恕」の本質です。

 

そして、典型的な恕の実践として次を挙げます。

「自分にされたくないことを人に対して行わない」

 

これに対して、「自分はされてもいいことは人に対して行ってもよいのか?」という疑問を抱く人もいるようなので、少し補足します。

孔子が説く教訓の本質は、要素道徳「恕」の実践にあります。

「自分にされたくないことを人に対して行わない」はその典型的な行為です。

だからといって、それが「恕」の全てなのではありません。

それを含めて「他者を思いやること」が大切なのです。

「自分はされてもよいと思っていることでも、他者が嫌がることはしてはならない」ということです。

 

「自分にされたくないことを人に対して行わない」という教訓は、キリスト教の世界では「黄金律(否定形)」として知られています。

古代から、世界のあちこちで、この教訓を見ることができると言われています。

この教訓は、古代から受け継がれている基本中の基本の教訓と言えます。

それを本章の教訓の形で示すことができます。

 

教訓

「恕:他者を思いやること」を実践しなさい。

「自分にされたくないことを人に対して行わない」などを実践しなさい。

そして、それを実践できていないことがなかったか、自分の行動を振り返りなさい。

そして、その振り返りを習慣にしなさい。

 

反省して「できていなかった」と気がついたときに取るべき行動

 

本章では、反省を習慣にするところまでしか語られていません。

しかし、実践を考慮すれば、反省して「できていなかった(道を外してしまった)」と気がついたときの対応まで考えておきたいものです。

 

論語には、その教訓が語られている章があります。

 

学而第一(8) 一部抜粋

 

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

過てば則ち改むるに憚(はばか)ること勿れ。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ。

 

この教訓を織り込んで本章の教訓が完成します。

 

教訓

善き生き方を実践しなさい。

そして、それが実践できていないことはなかったか、自分の行動を振り返りなさい。

そして、その振り返りを習慣にしなさい。

もし、それが実践できていないことに気がついたら、速やかに改善しなさい。

 

躾の教訓にも同様に織り込んでみましょう。

子供には、まずは、道徳の基本中の基本の「恕」を身に付けてもらいましょう。

 

教訓 躾 恕の実践

「恕:他者を思いやること」が人として大切なことだと教えなさい。

「自分にされたくないことを人に対して行わないこと」などを教えなさい。

そして、それができていないことはなかったか、自分の行動を振り返るよう躾なさい。

そして、その振り返りが習慣になるよう躾なさい。

もし、それができていないことに気がついたら速やかに改善するよう躾なさい。

謝罪が必要なときは、速やかに謝罪して関係を修復するよう躾なさい。

その謝罪が上手くできるよう謝罪の仕方を教えておきなさい。

 

こうした躾が子供達に行き渡れば、学校での虐めも少なくなるのではないでしょうか。

 

モノ作り企業の振り返り

 

自分の行動を振り返り、修正して、質を上げる、ということを私たちは日常的に行っています。そのことは、個人だけでなく組織にも言えます。

 

モノ作りをする企業では、製品は様々な工程を経て製造されます。

その中には、活動の振り返りを行う「レビュー:Review」という工程があります。

製品設計における「デザインレビュー」という工程が最も知られています。

デザインレビューは、目標とする設計品質を確保するために、設計の活動を振り返る工程です。

 

デザインレビューは次のように行われます。

まず、設計者は自分の設計の取り組みを振り返り、設計品質が十分確保できていることを確認し、それをデザインレビューの場で報告します。その報告をする者を(レビューイ:reviewee)と呼びます。

 

その報告に対して、その製品に関わる第三者が、それぞれの視点から、設計者の取り組みとその成果物の妥当性を審議します。その審議する第三者を(レビュアー:reviewer)と呼びます。

 

審議は設計品質を確保する上で不十分な点がないかを探すことが主眼になります。

したがって、批判的な目で見て、欠点や懸念点を指摘する行為が基本になります。

それは、「設計者も見落とすことがある(誤る)」という前提の下、そのリスクを低減するための第三者の支援という意味も持ちます。

 

「良い製品にしたい」と強く思っている人たちが審議するのですから、批判の目が厳しくなるのは当然です。そうした厳しい審議を経るからこそ良い製品が生まれます。

 

審議の結果、取り組みの質が低い、成果物の質が低いとみなされた設計者は批判に晒され、炎上することもあります。

そのことを恐れて、デザインレビューを嫌がる設計者もいるのが現実です。

デザインレビューの主旨を理解している善い設計者はそのような炎上を恐れません。

善い設計者は、自分の設計の取り組みをきちんと振り返り、設計品質が十分確保されていることを確認し、それを報告します。

そして、至らない点はないか第三者に批判的に見てもらい、改善すべき点を指摘してもらいます。

そうして明らかになった必要な改善を加えて、設計品質の確保をより確かなものにするよう努めます。

 

組織は、そのような「善き設計」のための「振り返り」を「常態化」するために、デザインレビューという工程を設定し、守らせます。

善きモノ作り企業は善きデザインレビューを実践しています。

 

重要法案の国会審議

 

法律作りもモノ作りと同じです。

善き法律を作る国会は善きレビューを実践しています。

国会の法案審議、予算審議はレビューです。

 

基本的に、法案を提出する政府はレビューイです。

野党はレビュアーの立場で審議します。

野党は、批判的な立場から問い、欠点や懸念点を指摘します。

その質疑応答を繰り返して、場合によっては法案を修正して、法案の質を高めます。

国民の生活に大きな影響を与える法案は、重要法案として扱われ、審議の様子が中継されます。

 

皆さんはその重要法案審議の国会中継を観たことがあるでしょうか。

「ひどいレビューだ」というのが私の率直な感想です。

答弁においては、質問を無視して関係のないことを回答したり、自分たちは間違わないと開き直ったり、データや公文書を改ざんしたり、・・・。

質問者の中には、時間が余ったからといって般若心経を唱えるという前代未聞のことをする者までいました。

このようなことが企業で行われていたら、その企業の業績が傾くのは必然です。

国も同じです。

 

国会の劣化は国会議員の劣化によるものですが、その根本は、そのような政治家を国会議員に選出した有権者の劣化(民度の低下)にあります。

その根本が変わらなければ国会の劣化は改善されません。

 

国会審議に関わる民度を低下させる巧言がありますので注意しましょう。

「野党は批判ばかりするな」という主張です。

「批判の質を上げよ」という主張ではありません。

批判そのものをやめさせようとする主張です。

 

野党はレビュアーの立場で法案を審議する役割を担います。

法案を良いものにしたい、良くない法案は通したくない、という強い気持ちがあれば、批判はより強くなります。

したがって、「批判ばかりするな」という主張は、国会審議におけるレビューの意義を損なう主張であり、的外れな主張です。

 

巧妙なのは、その主張を「野党も提案をしろ」という主張と合わせて主張することです。

審議する側のレビュアーが提案することは珍しくありません。

よりよいものになる提案であれば、それは結構なことです。

しかし、それを利用してレビュアーの本来の役割を妨げるような主張をするのなら、その主張は、レビューの意義を損なう巧言です。

 

少なくとも重要法案に対しては、政治家に任せるだけでなく、主権者である国民も、レビュアーの立場で(間接的に)国会審議に参加して、よりよい法案になるよう支援するべきでしょう。「批判ばかりするな」という巧言に騙されずに、批判的な目でその法案を見て、欠点や懸念点がないかを確認するべきでしょう。

そうした多くの人々のレビューによって、良い法案が通過し、良くない法案は改善され、場合によっては廃案になり、良い社会がもたらされます。

それが民主主義/主権在民における善きあり方です。

 

最後に、取り出した「論語の果実」を、行動を重視する孔子の意図を汲んで、「実践を強調した教訓として表現」し、「訳を意識した形式」でまとめます。

 

本章の教訓

 

特に大切にすべきだと思う要素道徳、教訓に注目しなさい。

そして、それが実践できていないことはなかったか、自分の行動を振り返りなさい。

そして、その振り返りを習慣にしなさい。

もし、それを実践できていないことに気がついたら速やかに改善しなさい。

 

それが善き生き方の実践のひとつである。

 

組織においては、組織の活動を振り返る工程(レビュー)を設けなさい。

そして、その工程(レビュー)を常態化しなさい。

組織の成員は、その工程(レビュー)に真摯に対応しなさい。

そして、その工程(レビュー)で、改善すべき点が見つかったら速やかに改善しなさい。

 

それが、善き組織の実践のひとつである。

 

今回はここまでです。

 

第6回 学而第一(3) 巧言令色、鮮し仁

学而第一(3)を鑑賞します。

本ブログを初めて読まれる方は、第1回、第2回を先に読んで頂ければと思います。

 

今回のテーマは「巧言に騙されない」です。

言葉の巧みな詐欺師に騙されて被害に遭う人々はたくさんいます。

巧言に騙されないための教訓は意義があります。

特に、戦争のプロパガンダに騙されないための教訓は、今の私たちにとって意義があります。

 

今回は、本章の鑑賞を通して、「巧言に騙されない」について考え、「論語の果実」を見いだし、味わい、楽しみます。一緒に楽しんで頂けたら幸です。

 

学而第一(3)

 

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE

子曰く、巧言令色、鮮(すくな)し仁。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

 先師がいわれた。――

「巧みな言葉、媚びるような表情、そうした技巧には、仁の影がうすい。」

 

はじめに下村の訳を鑑賞します。

特に補足もなく、書き下し文の頭から訳しています。

そのまま今の私たちに通じるでしょう、ということでしょうか。

たしかに、「巧みな言葉、媚びるような表情」と「仁の影がうすい」からは、似たような不快感を覚えます。

その意味で「孔子のおっしゃる通り」と共感する人は多いでしょう。

 

訳はここまでで、その先にある教訓には言及していません。

 

ここからは主観読みで鑑賞します。

本ブログの趣旨に従って「論語の果肉」を取り出して味わいます。

そして、実践に結びつく教訓を見いだします。

 

なお、本ブログでは「仁」を次のように捉えます。

 

「仁」は、先験的な価値観に基づく価値観であり、その価値観に基づく実践である。

その価値観には次のようなものがある。

・人を思いやる

・助ける(特に、子供など立場の弱い者に対して)

・協力する

(第5回 学而第一(2) 君子は本を務む を参照)

 

「巧言だ」と直ぐに分からないから巧言

 

まず、ここからは「巧言」にのみ注目します。

「令色」についての考察は「巧言」についての考察をそのままあてはめることができますので割愛します。

 

本ブログでは巧言を次のように捉えます。

巧言とは、「ウソなど悪意を含む言葉であるにもかかわらず、その悪意が直ぐには分からない巧みな言葉」のこと。

 

レトリックやプレゼンテーション上の技巧とは区別して、悪意を含む巧みな言葉を巧言と呼ぶことにします。

 

巧言の特徴に注目して巧言を識別する

 

では、巧言を識別するにはどうしたらよいでしょう。

その方法の一つとして、巧言が持つ特徴に注目する方法があります。

その特徴が確認できたら、それは巧言だ、とみなす方法です。

 

孔子は「巧言の特徴は仁を欠くことである」と指摘します。

つまり、「仁を欠くこと」に注目すれば、以下のように巧言を識別できます。

 

「少なし仁。それ、すなわち巧言なり」

 

「仁を欠くことを正当化する主張は巧言である」ということです。

 

もちろんこの教訓だけで全ての巧言を識別できるわけではありません。

しかし、この教訓で、私たちが最も注意すべき巧言を識別することができます。

 

戦争は最も注意すべき「仁を欠くこと」

 

最も注意すべき「仁を欠くこと」は戦争です。

まず、戦争が「仁を欠くこと」であることを確認しておきましょう。

 

戦争は殺し合いですから、戦闘の現場は悲惨です。

手足が吹き飛ばされ、血まみれになった人たちが何人もみられます。

そうした人々を何人もみながら、「殺さなければ殺される」という状況に長く置かれてしまえば、人間性を維持できなくなる人もあらわれるでしょう。

戦争は人から命、人間性を奪います。

 

どの国でも、国民の多くがそのことを理解していています。

そして、「戦争は、人としてやってはいけないことだ」と認識しています。

 

そのような戦争を容認するということは、人から命を奪うこと、人間性を奪うことを容認するということです。

それを認めたら「人間として終わり」です。

それが、二つの大きな世界大戦から学んだ現代人の基本的な認識です。

 

プロパガンダは最も注意すべき巧言

 

プロパガンダとは、特定の考えに向かわせるための宣伝活動のことです。

特に、国の権力者が、自分たちにとって都合の良い考えに誘導するために行う宣伝活動を言います。

 

繰り返しになりますが、どの国でも、国民の多くは戦争を望みません。

そのため、戦争をしたい国の指導者は、国民を戦争に向かわせるためのプロパガンダを展開します。戦争を正当化し、美化し、戦争に反対する人々を悪人に仕立て上げます。

 

国民の多くは戦争を望まないのですから、プロパガンダに騙されることなく、戦争に反対しそうなものですが、現実は、そうはいきません。

戦争のプロパガンダに国民は簡単に騙されるのです。

そして、「非人道的行為に反対!」という理由から「非人道的行為」である戦争を支持する、という笑い話のようなことが現実に起こるのです。

その実例をみてみましょう。

 

アメリカのイラク侵攻とプロパガンダ

 

アメリカのイラク侵攻の事例です。

2003年3月20日アメリカはイラクに武力侵攻しました。

アメリカのブッシュ大統領(当時)はイラク大量破壊兵器を持っていると主張し「人道、自衛」を大義名分にしてイラクに武力侵攻しました。

アメリカ政府の強力なプロパガンダによって、多くのアメリカ人がその大義名分を信じ、武力侵攻を支持しました。

しかし、戦争終結後、イラク大量破壊兵器は見つからず、その大義名分はウソであったことが明らかになりました。

 

これは、特別な事例ではありません。

プロパガンダに関する歴史的な教訓を確認しましょう。

 

ナチスプロパガンダ

 

ナチスドイツ国民を戦争に駆り立てたプロパガンダについて、ヒトラーの後継者とも言われた政治家、ヘルマン・ゲーリング (1893~1946) が、ニュルンベルク軍事裁判(1945~1946)で次のように語っています。

 

もちろん、一般市民は戦争を望んでいない。

しかし、結局、政策を決定するのは国の指導者達であり、

国民をそれに巻き込むのは、常に簡単なことだ。

自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。

そして、平和主義者については、

彼らは愛国心がなく国家を危険に曝す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。

この方法はどの国でも同じように通用するものだ。

 

ドイツ国民をプロパガンダで洗脳した当人の言葉ですから、説得力があります。

ゲーリングの言葉からプロパガンダに騙されないための教訓を取り出してみます。

 

教訓 プロパガンダに関して認識しておくべきこと

・国の指導者の中には戦争を望む者がいることがある

・そのような指導者はプロパガンダで国民を戦争に向かわせる

・そのプロパガンダには美辞麗句が織り込まれる

 ・「国を守る/愛する人を守る/愛国心」、など

・そのプロパガンダは、平和を守ろうとする人々を「愛国心がない」と非難する

・そのプロパガンダに対する警戒心がないと簡単に騙されてしまう

 

この教訓の通りにイラク戦争プロパガンダに人々は騙されてしまいました。

そういうことが繰り返えされている、という現実を認識することが大切です。

戦争のプロパガンダはそれだけ強力だということです。

 

現代の戦争の特徴とプロパガンダ

 

なぜ、戦争のプロパガンダは強力なのでしょうか。

それを考察するために、現代の戦争の特徴をみてみましょう。

 

歴史的に観ると、これまでは、支配の拡大、資源の略奪、宗教やイデオロギーの対立、など、様々な理由で戦争が行われてきました。

しかし、二つの世界大戦を経験した現代人は、戦争がもたらす非人間性に対する認識を深め、国家間の問題を解決する手段に武力を用いることを下策とみなすようになりました。それは『孫子の兵法』が書かれた昔からよく知られた認識です。

したがって、現代では、よほど無能な指導者でない限りは、国家間の問題を武力で解決しようとはしません。

 

それにもかかわらず、現代でも戦争がみられます。

その現代の戦争の特徴は、ビジネスのための戦争という点にあります。

 

戦争で金儲けしようとする人々がいるのです。

国民のためではなく、特定の個人や組織のための金儲けです。

その特定の個人や組織が、戦争ビジネスのために国を動かし、人々を戦争に巻き込みます。

その戦争ビジネスに関わる人々は「戦争屋」と呼ばれています。

 

戦争屋は、戦争によって得る巨額な利益を見込んで、大金を払って人々を動かします。

お金で動く政治家、マスコミ(新聞、テレビなど)関係者、専門家、著名人はたくさんいます。

戦争屋は、彼らを使って強力なプロパガンダを展開します。

政治家、マスコミ(新聞、テレビなど)、専門家、著名人が言うことを鵜呑みにしている人たちはたくさんいます。そのような人々は簡単に騙されます。

 

さらに厄介なのは、彼らが「ウソ」を「事実」として捏造することです。

彼らは、戦争を仕掛けたい相手がいかに非人道的であるかという「ウソ」を「事実」として捏造して、「非人道に対する戦い」という大義名分を掲げ、人々を扇動することがあります。

ライラという少女がアメリカ議会で語った「ライラ証言」がよく知られています。

ライラという少女は、イラク軍がクエートで子供に対する残虐行為をした、と証言したのですが、後で、それがウソであったことが分かりました。

公的な場で少女がウソをつくはずはない、と思い込んでいたアメリカ国民は簡単に騙されました。

アメリカ人に限らず、公的な場でのウソに騙される人はたくさんいます。

 

AIが進化して、真実味のあるウソの映像が簡単に作れるようになりました。

それがプロパガンダに使われたら、ウソの映像を真実と思い込み、簡単に騙される人々が、益々増えていくでしょう。

 

現実的に「戦争屋が展開する強力なプロパガンダの巧言を見抜くことは困難である」ということを理解できたでしょうか。

 

「ならぬことはならぬものです」という強い意志を持つ

 

戦争屋が展開するプロパガンダの強力さはカルトの洗脳と同じです。

カルトの洗脳から身を守る方法の一つに「カルトに関わらない」があります。

それは「戦争のプロパガンダを門前払いする」という方法です。

 

本章の教訓に戻りましょう。

 

「少なし仁。それ、すなわち巧言なり」

という教訓です。

 

この教訓を「戦争のプロパガンダは門前払いしなさい」という教訓として見直してみましょう。

 

教訓

ある主張を聞いたとき、その主張が「仁を欠く行為(戦争)」を正当化する主張だと確認できたとします。

「仁を欠く行為(戦争)」は「してはならない行為」ですから、その時点で「してはならない行為」を正当化する主張は巧言であると確定します。

巧言だと分かったのですから、耳を貸す必要はありません。

「仁を欠く行為(戦争)」を正当化する主張は門前払いしなさい。

 

戦争の正当化だと分かった時点で、戦争のプロパガンダを門前払いすれば、プロパガンダには騙されません。

 

ここで大切なことは、「プロパガンダを門前払いする」ということを強い意志で行わなければならないということです。

迂闊に門を開いてプロパガンダを受け容れると直ぐに騙されます。

 

マスコミ(新聞、テレビなど)の報道にも、大物政治家、専門家、著名人のプロパガンダに耳を貸さず、彼らに騙された大衆に迎合せず、「人の話を聞かない非国民」などの批判にも動じない強い意志が必要です。

 

「ならぬことはならぬものです(会津藩什の掟より)」

という強い意志がそれです。

 

「仁を欠くこと/人の道から外れたことは行ってはならない」という強い意志です。

「(仁を欠くことである)戦争を行ってはならない」という強い意志です。

 

その強い意志があれば、戦争屋が展開する強力なプロパガンダに騙されることはありません。

 

日頃から「仁を欠くこと」に対する感度を高めておく

 

その強い意志を養うためには、日頃から「仁を欠くこと」に対する感度を高めておくことが大切です。

 

増税に対する感度を高めるのもそのひとつです。

昔から「民の生活が苦しいときの増税」は、典型的な「仁を欠くこと」として知られています。

江戸時代には、「五公五民」、今でいう国民負担率50%が、一揆が起こるラインであったと言われています。

経済格差が拡大し、貧困が増えていて、かつ、国民負担率が50%に迫る、そのような状況での増税は明らかに「仁を欠くこと」と言えるでしょう。

したがって、そのような増税を正当化する主張がみられれば、それは巧言とみなしてよいでしょう。

 

ならぬことはならぬものです。

 

その強い意志に基づいて巧言を見抜き、その巧言に騙されないよう行動しなければなりません。

 

最後に、取り出した「論語の果実」を、行動を重視する孔子の意図を汲んで、「実践を強調した教訓として表現」し、「訳を意識した形式」でまとめます。

 

本章の教訓

 

巧言は「仁を欠く」という特徴を持つ。

したがって、「仁を欠く」という特徴から巧言を識別することができる。

「少なし仁。それ、すなわち巧言なり」である。

 

戦争は仁を欠く行為である。

したがって、戦争を正当化するプロパガンダは巧言である。

巧言に耳を貸す必要はない。

戦争のプロパガンダは門前払いしなさい。

 

それを、強い意志を持って実践しなさい。

「ならぬことはならぬものです」という強い意志である。

 

その強い意志で、仁を欠くことや人の道から外れたことを正当化する主張を巧言として門前払いしなさい。

 

それが、巧言、特に、強力な戦争のプロパガンダに騙されないための、実践のひとつである。

 

今回はここまでです。

 

第5回 学而第一(2) 君子は本を務む

学而第一(2)を鑑賞します。

本ブログを初めて読まれる方は、第1回、第2回を先に読んで頂ければと思います。

 

今回のテーマは「道徳の根本」です。

根本の大切さを認識している人は多いと思います。

しかし、「道徳の根本」について考えたことのある人は少ないのではないでしょうか。

 

今回は、本章の鑑賞を通して、根本の大切さを再確認し、道徳の根本について考え、本章の「論語の果肉」を見いだし、味わい、楽しみます。

一緒に楽しんで頂けたら幸です。

 

学而第一(2)

 

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE 一部編集

有子(ゆうし)曰く、

其の人となりや孝弟(こうてい)にして、而(しこう)して上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すくな)し。上を犯すを好まずして、而して乱をなすを好む者は、未だ之れ有らざるなり。

君子は本(もと)を務む、本立ちて而して道生ず、

孝弟なる者は其れ仁の本たるか。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

有先生がいわれた。――

「家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であつたためしはめったにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何事にも根本を大切にし、先ずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があつたのではあるまいか。」

 

○ 有==孔子の門人、姓は有(ゆう)、名は若(じやく)。孔子の死後、多くの門人が推して師と仰ごうとしたほどの傑出した人物である。

○ 「仁」は儒教において至高完全な徳を意味する。

 

はじめに全体の構造を明らかにします。

「君子は本を務む、本立ちて而して道生ず」を第二節とみなします。

それより前を第一節とみなし、それより後を第三節とみなし、全三節とみなします。

では、第一節から下村の訳を鑑賞します。

 

第一節は、因果関係が語られていますので、その妥当性について考えたくなりますが、本節全体がレトリック(技巧)であると理解することもできそうですので、本節の主旨を掴むことに専念します。

本節の主旨(有子の主張)は「親孝行な者に悪い者はいない」ということです。

 

第二節は、「根本を大切にして、実践しなさい。そうすれば道は自ずと開ける」という教訓が語られています。

根本を大切にするのは儒者の基本姿勢です。

論語から見いだされる教訓には、根本に着目した教訓が数多くあります。

 

第三節は、第二節を受けて「仁の根本」としての「孝(親孝行)」が語られています。

直訳すれば「孝を実践している者が仁の根本を実践している者だ」となります。

下村は「家庭道徳の忠実な実践に仁の根本があつた」と「家庭道徳」を強調した補足をしています。

 

下村の訳全体を通して理解できるのは、「孝」は大切な要素道徳であり、「仁」の根本であるから、「孝」をしっかり実践しなさい、と有子が説いているということです。

 

「孝」は、儒者たちにとっては、宗教的な意味を持つ特別な要素道徳です。

そのことを理解していれば、本章のように、儒者たちが「孝」を道徳の根本とみなしても違和感を覚えることはないと思います。

 

しかし、有子は「孝」の宗教的な側面については何も語っていません。

そういう、宗教の匂いがしないところも論語の親しみやすさのひとつだと思います。

 

ここからは、主観読みをして、論語の果肉を取り出して、味わいます。

前回同様「果肉を味わう」だけを示します。

 

根本に目を向けることの意義

 

まず、本章第二節「君子は本を務む、本立ちて而して道生ず」に注目します。

「根本を大切にして、実践しなさい。そうすれば道は自ずと開ける」

に注目します。

 

この教訓はそのまま今の私たちの教訓として取り出せます。

簡単な事例で根本の大切さを再確認しましょう。

 

例1:健康と根本

私たちは、病気で痛みを感じたり、高熱になったりすれば、まず、応急処置として、鎮痛剤や解熱剤などを用いて緩和します。

そして、痛みや高熱の原因を治療するための薬などを服用して処置します。

さらに、その原因となった生活習慣などの改善に努めます。

根本を改善しない人は「健康を損なう→応急処置で凌ぐ」を繰り返します。

そうしたことを繰り返す人は健康を維持できないでしょう。

そうして、衰弱するでしょう。

 

例2:製品の品質と根本

製品の製造において、工場から不良品が流出したときには、まず、不良品の再流出を防ぐためにチェック工程を増やすなどの応急処置を行います。

さらに、不良品が製造された原因を分析して製造工程を改善します。

さらに、不良品が製造しにくい製品になるよう製品設計の改善にも努めます。

根本を改善しない企業は「不良品を流出する→応急処置で凌ぐ」を繰り返します。

そうしたことを繰り返す企業は製品の品質を維持できないでしょう。

そうして、衰退するでしょう。

 

例3:政策の品質と根本

政府の政策が社会に不健全をもたらすことがあります。

主権者である国民は抗議し、不健全な政策の中止・変更を要請します。

さらに、政府に「善き政府」であることを要求します。

さらに、選挙において「善き国会議員」を選出します。

根本が改善されない国は「不健全な政策が実施される→国民が抗議する」を繰り返します。

そうしたことを繰り返す国は政策の健全性を維持できないでしょう。

そうして、衰退するでしょう。

 

人の健康においても、製品の品質においても、政策の健全性においても、その根本がしっかり為されることによって保たれ、安定します。

 

根本を掘り下げていくと、ほとんどの場合、ひとりひとりの「善きあり方」に辿り着きます。何事においても「善き生き方」を実践する個人が根本になるということが分かります。

 

現代では、モノや社会の「構造」という根本に注目します。

「構造という根本」をよりよいものにする役割を担う者をアーキテクトと呼び、その「構造という根本」を作り直してモノや社会を大きく変えることをイノベーションと呼びます。

このことも、根本の大切さを再認識させてくれます。

 

道徳の根本に目を向ける意義

 

要素道徳の根本に目を向けて、その根本を実践すれば、要素道徳の意義は保たれ、安定します。

つまり、「善き生き方」の実践が安定して、確かなものになります。

それが、道徳の根本に目を向け、実践することの意義です。

 

本章では、有子は「孝」を道徳の根本とみなしました。

本ブログは「仁」を道徳の根本とみなします。

なぜ「仁」を道徳の根本とみなすのか、その理由を説明します。

 

人は先験的な価値観を持つ

 

進化論の学びは「人間とは何か」を考えるよい機会を与えてくれます。

 

ダーウィンは『種の起原』の中で次のように説きます。

「生物は、置かれた自然環境に上手く適応したものがより生存確率を高め、生き残る。置かれた自然環境は様々であり、その適応の仕方も様々である。長い時間をかけて世代を重ねることで、その適応の仕方の違いは、生き残った生物の特徴となり、その特徴の違いに応じて種は分かれてきた。」

 

そうした特徴の一つに「子供の産み方/育て方」があります。

たとえば、魚類の祖先は、卵で多く産み、産みっぱなしにするという特徴を持ちました。

哺乳類の祖先は、少ない子供をある程度育てて産み、その後も世話をするという特徴を持ちました。

哺乳類の中でも人類の祖先は、産む子供の数は少なく、大切に育てるという特徴を持ちました。

そして、それぞれの特徴によって自然環境に適応して生き残ってきました。

注意しなければならないのは、その違いに善悪はないということです。

どちらも「適応したので生き残った」というだけです。

 

そうした特徴は、意志によって獲得したわけではなく、たまたま獲得しただけです。

人類の祖先が、子供を少なく産み、大切に育てるようになったのはたまたまです。

たまたま得た特徴ですが、その特徴によって自然環境に適応し、長い時間、何世代もの間、生き残ってきたということが重要です。

つまり、人の設計図であるDNAに「子供を少なく産み、大切に育てる」が刻まれた者が生き残ってきたということです。

 

「子供を少なく産み」は身体の設計に反映され、「大切に育てる」は価値観の設計に反映されていると言えます。

DNAに刻まれた価値観であるということは、人が経験に先立って持っている価値観(先験的な価値観)であるということを意味します。

「子供を大切に育てる」は人が持つ先験的な価値観であると言えます。

 

先験的な価値観と「仁」

 

私は、そのような先験的な価値観が道徳の本質のひとつだと捉えたいと思います。

同様の推察から、「助け合う/協力し合う」などの類似の価値観も、人が持つ先験的な価値観であり、道徳の本質のひとつだと捉えたいと思います。

 

それらの価値観をもう少し洗練して、抽象度を上げてみましょう。

そうすると「人を思いやる/人を愛する:人類愛」という言葉が浮かびます。

論語の「仁」の意味を調べると「人を愛する(人類愛)」と解説されているものをみることがあります。

したがって、その先験的な価値観を「仁」とみなすのは、そう的外れなことではないと思います。

 

本ブログでは「仁」を次のように捉えます。

 

「仁」は、先験的な価値観に基づく価値観であり、その価値観に基づく実践である。

その価値観には次のようなものがある。

・人を思いやる

・助ける(特に、子供など立場の弱い者に対して)

・協力する

 

論語で使われている「仁」は様々な側面を持ち、様々な解釈があり、正しい解釈を特定するのは難しいので、本ブログでは、ブログの趣旨に従って、正しい解釈を追うことはせずに、この簡素な、主観的な解釈を採用します。

 

私たちは「仁」を大切にしている

 

「仁」は先験的な価値観だからといって、皆がいつもその価値観に基づいて行動しているとは限りません。しかし、様々な場面で「私たちは仁を大切にしているのだ」と実感することがあります。特に、自然災害の際にそれを実感します。

 

日本は自然災害の多い国です。

自然災害が起これば、私たちは被災地の人々の安全を願います。

そして、被災者を助けたい、災害復旧に協力したいという思いが沸き起こります。

そして、安全を確認して励ます、ボランティとして現地に赴く、寄付をするなど、自分の身の丈に合った行動をとります。

それは特別なことではなく、あたりまえのこと、としてそうします。

 

「そうした思いと行動」が、何世代も通して積み上げられ、継承されて、「あたりまえの価値観」を形成しました。それが「仁」であり、道徳の根本(本質)です。

 

私たちは、その「あたりまえの価値観」に従って行動する人々に共感します。

 

仁と孝

 

繰り返しになりますが、私たちは、生まれた時は無力です。

誰かに助けてもらわないと生きていけません。

私たちが今あるのは、そうして助けてもらったからです。

私たちが最初に触れる道徳は、その助けてくれた人たちによる「仁」です。

 

その中でも、通常は、「親」の「仁」は格別です。

その親からの格別な「仁」に応える要素道徳が生まれるのは自然です。

その要素道徳は、親からの「仁」に対する敬意を本質として持ちます。

本ブログでは、それを「孝」と呼ぶことにします。

 

孝と家庭道徳

 

本ブログは「孝」をそのように捉えますので、毒親に対しては、「孝」という要素道徳は生まれないとみなします。

 

それに対して、「孝」を「子から親に向けた一方的、かつ、絶対的な道徳であるべきだ」と主張する人がいるかもしれません。

本ブログはその考え方に同意しません。

なぜなら、子から主体性を奪ってしまう可能性があるからです。

主体性を奪われれば、ひとりの人間としての善き生き方ができなくなります。

 

家庭道徳も道徳の実践ですから、その根本は「仁」です。

家族間の「仁」、つまり、家族のひとりひとりが主体的に実践する「仁」です。

その根本が実践されれば、「孝」という要素道徳は、自ずと生まれます。

 

本章の「論語の果肉を味わい、楽しむ」はここまでとします。

 

最後に、取り出した「論語の果肉」を、行動を重視する孔子の意図を汲んで、実践を強調した教訓として表現し、訳を意識した形式でまとめます。

 

本章の教訓

 

何事においても、根本に目を向け、それを実践しなさい。

根本を実践すれば、意義が保たれ、安定し、自ずと道も開ける。

 

「仁」は道徳の根本のひとつである。

「仁」とは、人が持つ先験的な価値観とその価値観に基づく実践を言う。

それは、次のような価値観である。

・思いやる

・助ける(特に、子供など立場の弱い者に対して)

・協力する

 

要素道徳の実践においては、その根本である「仁」を実践しなさい。

そうすれば、要素道徳の意義は保たれ、安定し、道も開ける。

 

家庭道徳の実践においては、その根本である家族間の「仁」を実践しなさい。

そうすれば、家庭道徳の意義は保たれ、安定し、道も開ける。

自ずと、家庭特有の要素道徳も生まれる。

「孝」はそうして生まれる要素道徳のひとつであり、親の「仁」に対する敬意を本質として持つ道徳である。

 

そうした実践が、善き道徳の実践である。

 

今回はここまでです。

 

第4回 学而第一(1) 学びて時にこれを習う

学而第一(1)を鑑賞します。

本ブログを初めて読まれる方は、第1回、第2回を先に読んで頂ければと思います。

 

今回のテーマは「学び」です。

皆さんは、学びにおいて、何か心がけていることはあるでしょうか?

学びに関するお気に入りの格言や教訓はあるでしょうか?

漫然と学ぶよりも、それらがある方が、学びは善いものになるのではないでしょうか。

 

今回は、本章の鑑賞を通して、「善き学び」に関する「論語の果肉」を見いだし、味わい、楽しみます。一緒に楽しんで頂けたら幸です。

 

学而第一(1)

 

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE 一部編集

子曰く、学びて時にこれを習う、また悦(よろこば)しからずや。

朋(とも)遠方より来る有り、また楽しからずや。

人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

先師がいわれた。――

「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなったら、何と人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか。」

 

○ 論語において、「学ぶ」ということは、常に道徳的精進を意味し、更に進んでそれを政治に実現する道を学ぶことを意味する。そして孔子の理想とする有徳者乃至政治家は、堯・舜・禹・湯・武等の如き古代の帝王であるが故に、所詮はそうした先王の道を学ぶことが、論語における「学ぶ」ということになるのである。

○ 君子==この語はところによって多少意味が変るが、主として「求道者」「真人」「上に立つ人」「為政家」等を意味し、場合によっては、そのすべてを含めた意味に用いられる。本章では「求道者」「真人」というような意味であろう。

 

はじめに、下村の訳を鑑賞します。

論語は短い言葉で書かれています。したがって、多くの余白があります。

その余白を適切に埋めて、つまり、補足して解釈する必要があります。

そのためには、ある程度の知識と想像力が必要になります。

下村の訳は、知識の豊富な専門家らしい補足がなされています。

 

本章は三節から成ります。まず第一節をみてみましょう。

下村は「学び」を「聖賢の道を学ぶ」と補足しています。

下村の注釈、古代の帝王の道を学ぶことが論語における「学ぶ」ということになる、を踏まえた訳であることが分かります。

次に「習う」を、単に復習することではなく、「実践できるところまで修練する」と解釈しています。「それを自分の血肉とする」という表現には趣があります。

最後に「悦び」を「生きがいのある生活」と訳します。

下村の第1節の訳には、スケールの大きさが感じられます。

 

第二節では、「朋」を「求道の同志」とみなし、そのような友人が訪ねてくることが楽しいと解釈します。そして、友人が訪ねてくる理由を「自分のことを伝えきいて」と補足しています。第一節のスケール感からすると、「世間に(賢者という)評判が拡がって」という解釈なのだろうと思います。

 

ここまで読むと、孔子の下で学ぶ者の成功モデルが語られているような気がしてきます。そこで、下村は、すかさず、第三節の冒頭で「むろん、名聞が大事なのではない」と補足します。そして、学びにおいて大切なことは「心が道そのものに落ちついている」という状態にあることだ、として、そのような人物になりなさい、と説いていると解釈します。

 

下村は「君子」を注釈の意味で使っていますが、本ブログでは、「君子」を「あるべき姿を実現している者/目標とする人物」として捉えます。

 

下村のスケールの大きい訳からも、学びについて考えさせられるものはありますが、ここからは、筆者の主観読みで鑑賞します。

本ブログの趣旨に従って「論語の果肉」を取り出して味わいます。

 

論語の皮を剥いて」、「論語の果肉を取り出して」、「論語の果肉を味わう」、という手順に従って丁寧に説明したいのですが、それをすると長くなりますので、「取り出した果肉を味わう」ところだけを示します。

 

成長を喜ぶ

 

私たちは、生まれたときは、何も知りません。

「自分は何者なのか」、「世界はどうなっているのか」、・・・。

「知ること=学び」は、生きていく上で必要不可欠です。

知識を増やし、経験を積み、「自分は何者なのか」、「世界はどうなっているのか」を少しずつ理解し、そして、「できること」を増やしていきます。それが成長です。

 

私たちは、成長を実感すると嬉しく思います。成長は悦びをもたらします。

成長した本人だけでなく、見守る人々、たとえば、子を見守る親、生徒を見守る先生、弟子を見守る師匠なども、その成長を悦びます。

 

その、「成長」と「成長がもたらす悦び」は、「学びの本質」であり、「学びを支える根本」であるとみなすことができます。

 

共感を楽しむ

 

共感は人の基本的な感情のひとつです。

ドラマやアニメを観て、あるいは、世界の名著と呼ばれているような本を読んで、その内容や著者の考え方に共感することはよくあると思います。

 

その共感は楽しさをもたらします。

「共感」と「共感がもたらす楽しさ」は、学びにおける基本的な感情のひとつです。

 

子供は成長し、学校で学ぶようになり、多くの学友と接するようになります。

学びにおける他者との関係が深まります。そして様々な影響を与え合います。

学びの「共感」にも影響を与えます。

 

学友を得ると、学びで得た共感を、その学友に伝えたくなります。

たとえば、皆さんは、気に入った本を友人に紹介したり、友人から本を紹介されたりしたことはないでしょうか。

共感を友人と共有できれば、更に楽しさが増します。

友人の存在によって「共感が拡がる楽しさ」を味わうこともできます。

 

見方を換えて、「共感を共有できる人々」を「友」と呼ぶことにしましょう。

論語に共感し、楽しいと感じられるなら、孔子は共感を共有できる「友」であり、論語の編者は共感を共有できる「友」です。

私たちは、学びによって、時代や場所を越えて、そのような「友」と出会うことができます。

それは、「楽しさ」をもたらしてくれます。

 

このブログを通して、私は、面識のない皆さんとつながります。

面識はなくても、このブログに共感して頂ける皆さんは「友」です。

 

そのような、「共感」と「共感がもたらす楽しさ」は、「学びの本質」であり、「学びを支える根本」であるとみなすことができます。

 

他者の評価を気にしない

 

学校で学ぶようになり、クラスが上がるにつれて、相対評価の位置付けが高くなっていきます。テストを繰り返し、偏差値などで自分の「相対的な位置」を認識させられる機会が多くなります。それは、特に、受検に際して、大きな意味を持ちます。

そうして、テストの成績に落ち込んだり、自分の偏差値と志望校に受かるのに必要な偏差値とのギャップに悩んだりするようになります。

落ち込んだり悩んだりすることで評価が上がるわけではありません。

そんな暇があったら、自分の弱点克服に時間をかける方が賢いというものです。

賢い人は他者の評価に悩んだり落ち込んだりしないものです。

そう分かっていても、評価が低ければ気になるものです。

「他者の評価を気にするのもほどほどに」というのが現実的な教訓かもしれません。

 

短距離走長距離走の走り方は違う

 

ラソン競技で100m走のような走り方をする人はいません。

そのような走り方をすれば、結果が出せないことを皆知っているからです。

そのことを念頭に置いて、学びをみていきましょう。

 

学校では、中間試験、期末試験、などのように、短い期間で評価を繰り返します。

学生は、その目標に向けて頑張ります。そして、極めつきが入学試験です。

まるで入学が人生の最大目標であるかのように全力を尽くし、入学試験合格という結果が出て、歓喜する姿が見られることがあります。

入学できておめでとう、ではありますが、でも、それがゴールではないので、と思ってしまいます。

言うまでもなく、入学した後には「更なる学び」が待っています。

学校を卒業して社会人になっても「更なる学び」が待っています。

学びは、ほぼ、一生を通した取り組みとみなすのが妥当です。

学びは、長距離走とみなすのが妥当だと言うことです。

志望校の入学に全力を尽くして、入学が決まって、燃え尽きた、という姿は、マラソン競技で100m走のような走り方をしてバテました、という姿と同じです。

 

では、学びを長期の取り組みと捉えたときの心構えなどはあるのでしょうか。

それを、本章から見いだすことができます。

 

・成長がもたらす悦びを大切にする

・共感がもたらす楽しさを大切にする

・他者の評価や評判に心を乱されないよう集中する

 

ある、オリンピックのマラソン競技金メダリストは、マラソン上達のためのアドバイスを問われて「楽しむことだ」と答えたと言われています。

 

孔子は「楽しむこと」を重視していました。

次の章がよく知られています。

 

雍也第六(20)

 

書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE 一部編集

子曰く、之れを知る者は、之れを好む者に如(し)かず。

之れを好む者は、之れを樂む者に如かず。

 

訳:下村湖人『現代訳論語』青空文庫

 先師がいわれた。――

「真理を知る者は真理を好む者に及ばない。

真理を好む者は真理を楽しむ者に及ばない。」

 

「知る者」であるよりも、「楽しむ者」でありなさい、という孔子の教訓は、今の時代にも通じる教訓ではないでしょうか。

 

本章の「論語の果肉を味わい、楽しむ」はここまでとします。

 

最後に、取り出した「論語の果肉」を、行動を重視する孔子の意図を汲んで、「実践を強調した教訓として表現」し、「訳を意識した形式」でまとめます。

 

本章の教訓

 

学びは成長をもたらす。

成長は悦びをもたらす。

その悦びは学びの本質であり根本である。

その悦びを大切にして学びなさい。

 

学びは共感をもたらす。

共感は楽しさをもたらす。

共感を共有する「友」の存在は一層の楽しさをもたらす。

その楽しさは学びの本質であり根本である。

その楽しさを大切にして学びなさい。

 

他者の評価や評判は心理的な乱れを誘う。

それによって心を乱しても善いことは何もない。

そのようなことに心を乱されることなく、

学びの本質、根本を大切にして学びに集中しなさい。

 

それが善き学びの実践である。

 

今回はここまでです。