本ブログの趣旨
論語を楽しむ。
そして、善き生き方について考え、良識を豊かにする。
それが本ブログの趣旨です。
モノ、コトと“善”
モノ、コトには、まず「事実」があります。
そして、その事実に基づいた「意味」があります。
そして、その「意味」に基づいた「意義」があります。
私たちはまず「事実」を正しく認識しなければなりません。
誤った事実ではなく、「真実」を認識しなければなりません。
「真実」を認識することを、ここでは“善”に含めることにします。
その「事実」に基づいて、私たちは、私たちの「関心」に応じた、様々な「意味」を認識します。
私たちの「関心」のひとつに「道徳的(倫理的)な関心」があります。
その「道徳的(倫理的)な関心」から「“善・悪”」という「意味」を認識します。
その「“善・悪”」という「意味」に基づいて、私たちは、私たちの「価値観」に応じた、様々な「意義」を認識します。
「価値観」は行動を促します。「どう行動するべきか」は「意義」のひとつです。
私たちは「意義」に応じて行動します。
その行動はコトとして、“善・悪”という側面から、その「意味」を評価することができます。
良識
以上に示した、””善・悪”が判断でき、”善”と評価できる行動を取れる能力のことを本ブログでは「良識」と呼びます。
その能力を持ち、”善”と評価できる行動を取る人を「良識を備えた人」と呼びます。
その能力をもう少し掘り下げてみましょう。
まず「真実」を認識する能力を掘り下げます。
その根本は、理性を正しく働かせる能力と言うことができます。
「事実の確実さ」、「論理的な整合性」などを理性を働かせることによって認識する能力です。例として、推論や科学的な検証をする能力が上げられます。
次に「道徳的(倫理的)な関心に基づく”善・悪”」を認識する能力を掘り下げます。
その能力には、先験的なものと経験的なものがあります。
私たちは生まれながらにして持つ”善・悪”の判断能力(良知)があります。
また、経験や学びによって修得した道徳的な”善・悪”の判断能力があります。
それらが「道徳的(倫理的)な関心に基づく”善・悪”」を認識する能力と言えます。
儒教の考え方を初学者向けに解説した『大学』では、「善き社会」の実現の根本を掘り下げれば「格物致知」に至ると説かれています。
格物致知とは、一言で言えば「モノ、コトを認識する能力を極めること」です。
「善き社会」の実現には、ひとりひとりが自らの「モノ、コトを認識する能力を極めること」が必要だということです。
その格物致知について二つのよく知られた解釈があります。
朱熹(しゅき 1130 - 1200)は「理性を働かせて真理を見極めること(究理)」に着目して格物致知を説きました。
王陽明(おうようめい 1472 - 1529)は「(人が生まれながらに持っている)良知を働かせて善悪を見極めること」に着目して格物致知を説きました。
本ブログでの良識は、その両方の格物致知を意識しています。
格物致知、良識は、モノ、コトを認識するための基本的な能力であり、人として持つべき基本的な能力と言えます。
良識と公教育
モノ、コトを認識するための基本的な能力は、当然、公教育の対象になります。
では、現代の日本の公教育ではどうでしょうか。
筆者の経験からは、「理性を働かせて”正解”を導く力」を養うことには時間をかけてきた、と思えます。しかし、「道徳的な”善・悪”を判断する力」を養うことができたとは思えません。
公教育がそうなっている主な理由として、以下の二点が考えられます。
まず、「“道徳的な善・悪”には客観性がないとみなされている」ということが考えられます。「客観的に正しいと言えないことを教えるべきではない」という声があるのではないでしょうか。
また、民の側には、「権力を持った側が示す道徳的な“善・悪”は彼らの都合のよい“善・悪”である」という警戒心があるのではないでしょうか。それは、歴史的な経験からもたらされる警戒心です。
その結果、今の日本では、公教育で道徳的な“善・悪”を判断する力を養うことは難しくなっているのではないでしょうか。
公教育で対応していなくても、大切な能力ですから、自分で養う必要があります。
道徳的な“善・悪”を判断する力を養う典型的な方法に読書があります。
特に、名作と呼ばれる文芸作品や古典は、国を問わず、長く読み継がれてきたことから、そこには、場所や時代に関係なく、多くの人々が共感できるものが織り込まれているとみなすことができます。
その共感は読者個人の主観によるものですが、時と場所に関係なく、多くの人々の主観が、同じように共感するということは、それは、客観的とまでは言わないまでも、それに近い、「今も、これからも共感できる」と確信できるものがある、とみなすことができます。つまり、間主観的に確信できるものがあると言うことができます。
間主観性に着目すれば、道徳的な“善・悪”には客観性がない、ということを気にかける必要はありません。
名作と呼ばれる文芸作品や古典を読んで道徳的な“善・悪”を判断する力を養いましょう。
それに適した典型的な古典に論語があります。
本ブログは、論語を読んで道徳的な“善・悪”を判断する力を養うことを助けます。
論語の注釈書と論語本
論語の文は短く、説明的には書かれていませんので、昔から、専門家による論語の正統な解釈(注釈)の試みが為されてきました。
よく知られた論語の注釈書として、三国時代の儒学者である何晏(かあん 196 - 249)等がまとめたとされる『論語集解(ろんごしっかい)』があります。古注と呼ばれています。
その後、南宋の儒学者である朱熹が論語の注釈書として、『論議集注(ろんごしっちゅう)』をまとめました。新注と呼ばれています。
この新注の影響は大きく、その後の多くの注釈書、現在、日本で見られる論語本の多くが、新注を参照していると言われています。
今の日本では、専門家の先生方が解釈する様々な論語本を手に取ることができます。
本ブログは、その中から、下村湖人『現代訳論語』を採用して鑑賞します。
「論語の果肉」を味わう
下村は、『現代訳論語』の冒頭の「論語を読む人のために」の中で、次のような論語の読み方を勧めています。
引用開始:
「論語」を読む者の心しなければならない重要な二点があるのである。
その第一は、「論語」の言葉のあるものは、今日のわれわれの時代においては、文字どおりに受け容れられるものではなく、また強いて受け容れようとしてはならないということであり、その第二は、しかし、だからといって、「論語」をただちに時代錯誤の書として早計にすててしまってはならないということである。
(中略)
かりに「論語」から周代の色をおびていると思われる一切の表現を消し去って見るがいい。また、今日から見て少しでも時代錯誤だと思われる表現があったら、それをも遠慮なく消し去って見るがいい。そのあとに何も残らないかというと、むしろわれわれは残るものの多きにおどろくであろう。しかもそれらはすべて古今を貫き東西を貫く普遍の真理であり、そしてそれらの真理が、時代錯誤だと思われ、周代の考え方だと思われる表現の底にも、厳として存在していることに気づくであろう。
(中略)
かくて「論語」は周代の皮に包まれた真理の果実であるということが出来よう。われわれはその皮におどろいて果肉をすててはならないし、さればといって、皮ごとうのみにしてもならない。皮をはいで果肉をたべる、これが要するに「論語」の正しい読みかたなのである。
:引用終了
「論語の果肉」を共に味わう
繰り返しになりますが、ある書物が「時と場所を越えて、多くの人々に長く読み継がれてきた」ということは、そこには、「(今も、これからも)人々が共感するものが織り込まれている」とみなすことができます。下村はそれを「論語の果肉」と呼びます。
本ブログでは、下村の勧めに従って、孔子が生きた時代(周代)のコンテキストを考慮に入れて、「論語の皮(周代の皮など)」を識別して、剥いて、今の私たちにとって意義のある「論語の果肉」を取り出して、味わいます。
今の私たちにとっての意義とは、主に「良識:道徳的な“善悪”を判断する力」を養う、という意義を指します。
本ブログでは、筆者が、論語の各章において、どう「論語の果肉」を取り出し、味わい、楽しんだのかを語ります。
読者が、それに共感して、楽しむ、あるいは、それをヒントにして自分に合った「論語の果肉」を取り出し、味わい、楽しむ・・・そうして楽しんでもらうことが、本ブログの趣旨です。
本ブログでは、下村訳も補足しますが、論語の解説をするものではありません。
あくまでも関心は、「良識」を養い、豊かにすること、特に「道徳的な“善・悪”を判断する力」を養うことにあります。
したがって、論語と「今の私たちの良識」をつなぐことが主な関心であり、論語の正しい解釈にはあまり関心を向けません。
節度を越えない範囲内で自由に(主観的に)解釈します。
今回はここまでです。