学而第一(1)を鑑賞します。
本ブログを初めて読まれる方は、第1回、第2回を先に読んで頂ければと思います。
今回のテーマは「学び」です。
皆さんは、学びにおいて、何か心がけていることはあるでしょうか?
学びに関するお気に入りの格言や教訓はあるでしょうか?
漫然と学ぶよりも、それらがある方が、学びは善いものになるのではないでしょうか。
今回は、本章の鑑賞を通して、「善き学び」に関する「論語の果肉」を見いだし、味わい、楽しみます。一緒に楽しんで頂けたら幸です。
学而第一(1)
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE 一部編集
子曰く、学びて時にこれを習う、また悦(よろこば)しからずや。
朋(とも)遠方より来る有り、また楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。
先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなったら、何と人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか。」
○ 論語において、「学ぶ」ということは、常に道徳的精進を意味し、更に進んでそれを政治に実現する道を学ぶことを意味する。そして孔子の理想とする有徳者乃至政治家は、堯・舜・禹・湯・武等の如き古代の帝王であるが故に、所詮はそうした先王の道を学ぶことが、論語における「学ぶ」ということになるのである。
○ 君子==この語はところによって多少意味が変るが、主として「求道者」「真人」「上に立つ人」「為政家」等を意味し、場合によっては、そのすべてを含めた意味に用いられる。本章では「求道者」「真人」というような意味であろう。
はじめに、下村の訳を鑑賞します。
論語は短い言葉で書かれています。したがって、多くの余白があります。
その余白を適切に埋めて、つまり、補足して解釈する必要があります。
そのためには、ある程度の知識と想像力が必要になります。
下村の訳は、知識の豊富な専門家らしい補足がなされています。
本章は三節から成ります。まず第一節をみてみましょう。
下村は「学び」を「聖賢の道を学ぶ」と補足しています。
下村の注釈、古代の帝王の道を学ぶことが論語における「学ぶ」ということになる、を踏まえた訳であることが分かります。
次に「習う」を、単に復習することではなく、「実践できるところまで修練する」と解釈しています。「それを自分の血肉とする」という表現には趣があります。
最後に「悦び」を「生きがいのある生活」と訳します。
下村の第1節の訳には、スケールの大きさが感じられます。
第二節では、「朋」を「求道の同志」とみなし、そのような友人が訪ねてくることが楽しいと解釈します。そして、友人が訪ねてくる理由を「自分のことを伝えきいて」と補足しています。第一節のスケール感からすると、「世間に(賢者という)評判が拡がって」という解釈なのだろうと思います。
ここまで読むと、孔子の下で学ぶ者の成功モデルが語られているような気がしてきます。そこで、下村は、すかさず、第三節の冒頭で「むろん、名聞が大事なのではない」と補足します。そして、学びにおいて大切なことは「心が道そのものに落ちついている」という状態にあることだ、として、そのような人物になりなさい、と説いていると解釈します。
下村は「君子」を注釈の意味で使っていますが、本ブログでは、「君子」を「あるべき姿を実現している者/目標とする人物」として捉えます。
下村のスケールの大きい訳からも、学びについて考えさせられるものはありますが、ここからは、筆者の主観読みで鑑賞します。
本ブログの趣旨に従って「論語の果肉」を取り出して味わいます。
「論語の皮を剥いて」、「論語の果肉を取り出して」、「論語の果肉を味わう」、という手順に従って丁寧に説明したいのですが、それをすると長くなりますので、「取り出した果肉を味わう」ところだけを示します。
成長を喜ぶ
私たちは、生まれたときは、何も知りません。
「自分は何者なのか」、「世界はどうなっているのか」、・・・。
「知ること=学び」は、生きていく上で必要不可欠です。
知識を増やし、経験を積み、「自分は何者なのか」、「世界はどうなっているのか」を少しずつ理解し、そして、「できること」を増やしていきます。それが成長です。
私たちは、成長を実感すると嬉しく思います。成長は悦びをもたらします。
成長した本人だけでなく、見守る人々、たとえば、子を見守る親、生徒を見守る先生、弟子を見守る師匠なども、その成長を悦びます。
その、「成長」と「成長がもたらす悦び」は、「学びの本質」であり、「学びを支える根本」であるとみなすことができます。
共感を楽しむ
共感は人の基本的な感情のひとつです。
ドラマやアニメを観て、あるいは、世界の名著と呼ばれているような本を読んで、その内容や著者の考え方に共感することはよくあると思います。
その共感は楽しさをもたらします。
「共感」と「共感がもたらす楽しさ」は、学びにおける基本的な感情のひとつです。
子供は成長し、学校で学ぶようになり、多くの学友と接するようになります。
学びにおける他者との関係が深まります。そして様々な影響を与え合います。
学びの「共感」にも影響を与えます。
学友を得ると、学びで得た共感を、その学友に伝えたくなります。
たとえば、皆さんは、気に入った本を友人に紹介したり、友人から本を紹介されたりしたことはないでしょうか。
共感を友人と共有できれば、更に楽しさが増します。
友人の存在によって「共感が拡がる楽しさ」を味わうこともできます。
見方を換えて、「共感を共有できる人々」を「友」と呼ぶことにしましょう。
論語に共感し、楽しいと感じられるなら、孔子は共感を共有できる「友」であり、論語の編者は共感を共有できる「友」です。
私たちは、学びによって、時代や場所を越えて、そのような「友」と出会うことができます。
それは、「楽しさ」をもたらしてくれます。
このブログを通して、私は、面識のない皆さんとつながります。
面識はなくても、このブログに共感して頂ける皆さんは「友」です。
そのような、「共感」と「共感がもたらす楽しさ」は、「学びの本質」であり、「学びを支える根本」であるとみなすことができます。
他者の評価を気にしない
学校で学ぶようになり、クラスが上がるにつれて、相対評価の位置付けが高くなっていきます。テストを繰り返し、偏差値などで自分の「相対的な位置」を認識させられる機会が多くなります。それは、特に、受検に際して、大きな意味を持ちます。
そうして、テストの成績に落ち込んだり、自分の偏差値と志望校に受かるのに必要な偏差値とのギャップに悩んだりするようになります。
落ち込んだり悩んだりすることで評価が上がるわけではありません。
そんな暇があったら、自分の弱点克服に時間をかける方が賢いというものです。
賢い人は他者の評価に悩んだり落ち込んだりしないものです。
そう分かっていても、評価が低ければ気になるものです。
「他者の評価を気にするのもほどほどに」というのが現実的な教訓かもしれません。
短距離走と長距離走の走り方は違う
マラソン競技で100m走のような走り方をする人はいません。
そのような走り方をすれば、結果が出せないことを皆知っているからです。
そのことを念頭に置いて、学びをみていきましょう。
学校では、中間試験、期末試験、などのように、短い期間で評価を繰り返します。
学生は、その目標に向けて頑張ります。そして、極めつきが入学試験です。
まるで入学が人生の最大目標であるかのように全力を尽くし、入学試験合格という結果が出て、歓喜する姿が見られることがあります。
入学できておめでとう、ではありますが、でも、それがゴールではないので、と思ってしまいます。
言うまでもなく、入学した後には「更なる学び」が待っています。
学校を卒業して社会人になっても「更なる学び」が待っています。
学びは、ほぼ、一生を通した取り組みとみなすのが妥当です。
学びは、長距離走とみなすのが妥当だと言うことです。
志望校の入学に全力を尽くして、入学が決まって、燃え尽きた、という姿は、マラソン競技で100m走のような走り方をしてバテました、という姿と同じです。
では、学びを長期の取り組みと捉えたときの心構えなどはあるのでしょうか。
それを、本章から見いだすことができます。
・成長がもたらす悦びを大切にする
・共感がもたらす楽しさを大切にする
・他者の評価や評判に心を乱されないよう集中する
ある、オリンピックのマラソン競技金メダリストは、マラソン上達のためのアドバイスを問われて「楽しむことだ」と答えたと言われています。
孔子は「楽しむこと」を重視していました。
次の章がよく知られています。
雍也第六(20)
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE 一部編集
子曰く、之れを知る者は、之れを好む者に如(し)かず。
之れを好む者は、之れを樂む者に如かず。
先師がいわれた。――
「真理を知る者は真理を好む者に及ばない。
真理を好む者は真理を楽しむ者に及ばない。」
「知る者」であるよりも、「楽しむ者」でありなさい、という孔子の教訓は、今の時代にも通じる教訓ではないでしょうか。
本章の「論語の果肉を味わい、楽しむ」はここまでとします。
最後に、取り出した「論語の果肉」を、行動を重視する孔子の意図を汲んで、「実践を強調した教訓として表現」し、「訳を意識した形式」でまとめます。
本章の教訓
学びは成長をもたらす。
成長は悦びをもたらす。
その悦びは学びの本質であり根本である。
その悦びを大切にして学びなさい。
学びは共感をもたらす。
共感は楽しさをもたらす。
共感を共有する「友」の存在は一層の楽しさをもたらす。
その楽しさは学びの本質であり根本である。
その楽しさを大切にして学びなさい。
他者の評価や評判は心理的な乱れを誘う。
それによって心を乱しても善いことは何もない。
そのようなことに心を乱されることなく、
学びの本質、根本を大切にして学びに集中しなさい。
それが善き学びの実践である。
今回はここまでです。