学而第一(2)を鑑賞します。
本ブログを初めて読まれる方は、第1回、第2回を先に読んで頂ければと思います。
今回のテーマは「道徳の根本」です。
根本の大切さを認識している人は多いと思います。
しかし、「道徳の根本」について考えたことのある人は少ないのではないでしょうか。
今回は、本章の鑑賞を通して、根本の大切さを再確認し、道徳の根本について考え、本章の「論語の果肉」を見いだし、味わい、楽しみます。
一緒に楽しんで頂けたら幸です。
学而第一(2)
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE 一部編集
有子(ゆうし)曰く、
其の人となりや孝弟(こうてい)にして、而(しこう)して上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すくな)し。上を犯すを好まずして、而して乱をなすを好む者は、未だ之れ有らざるなり。
君子は本(もと)を務む、本立ちて而して道生ず、
孝弟なる者は其れ仁の本たるか。
有先生がいわれた。――
「家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であつたためしはめったにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何事にも根本を大切にし、先ずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があつたのではあるまいか。」
○ 有==孔子の門人、姓は有(ゆう)、名は若(じやく)。孔子の死後、多くの門人が推して師と仰ごうとしたほどの傑出した人物である。
○ 「仁」は儒教において至高完全な徳を意味する。
はじめに全体の構造を明らかにします。
「君子は本を務む、本立ちて而して道生ず」を第二節とみなします。
それより前を第一節とみなし、それより後を第三節とみなし、全三節とみなします。
では、第一節から下村の訳を鑑賞します。
第一節は、因果関係が語られていますので、その妥当性について考えたくなりますが、本節全体がレトリック(技巧)であると理解することもできそうですので、本節の主旨を掴むことに専念します。
本節の主旨(有子の主張)は「親孝行な者に悪い者はいない」ということです。
第二節は、「根本を大切にして、実践しなさい。そうすれば道は自ずと開ける」という教訓が語られています。
根本を大切にするのは儒者の基本姿勢です。
論語から見いだされる教訓には、根本に着目した教訓が数多くあります。
第三節は、第二節を受けて「仁の根本」としての「孝(親孝行)」が語られています。
直訳すれば「孝を実践している者が仁の根本を実践している者だ」となります。
下村は「家庭道徳の忠実な実践に仁の根本があつた」と「家庭道徳」を強調した補足をしています。
下村の訳全体を通して理解できるのは、「孝」は大切な要素道徳であり、「仁」の根本であるから、「孝」をしっかり実践しなさい、と有子が説いているということです。
「孝」は、儒者たちにとっては、宗教的な意味を持つ特別な要素道徳です。
そのことを理解していれば、本章のように、儒者たちが「孝」を道徳の根本とみなしても違和感を覚えることはないと思います。
しかし、有子は「孝」の宗教的な側面については何も語っていません。
そういう、宗教の匂いがしないところも論語の親しみやすさのひとつだと思います。
ここからは、主観読みをして、論語の果肉を取り出して、味わいます。
前回同様「果肉を味わう」だけを示します。
根本に目を向けることの意義
まず、本章第二節「君子は本を務む、本立ちて而して道生ず」に注目します。
「根本を大切にして、実践しなさい。そうすれば道は自ずと開ける」
に注目します。
この教訓はそのまま今の私たちの教訓として取り出せます。
簡単な事例で根本の大切さを再確認しましょう。
例1:健康と根本
私たちは、病気で痛みを感じたり、高熱になったりすれば、まず、応急処置として、鎮痛剤や解熱剤などを用いて緩和します。
そして、痛みや高熱の原因を治療するための薬などを服用して処置します。
さらに、その原因となった生活習慣などの改善に努めます。
根本を改善しない人は「健康を損なう→応急処置で凌ぐ」を繰り返します。
そうしたことを繰り返す人は健康を維持できないでしょう。
そうして、衰弱するでしょう。
例2:製品の品質と根本
製品の製造において、工場から不良品が流出したときには、まず、不良品の再流出を防ぐためにチェック工程を増やすなどの応急処置を行います。
さらに、不良品が製造された原因を分析して製造工程を改善します。
さらに、不良品が製造しにくい製品になるよう製品設計の改善にも努めます。
根本を改善しない企業は「不良品を流出する→応急処置で凌ぐ」を繰り返します。
そうしたことを繰り返す企業は製品の品質を維持できないでしょう。
そうして、衰退するでしょう。
例3:政策の品質と根本
政府の政策が社会に不健全をもたらすことがあります。
主権者である国民は抗議し、不健全な政策の中止・変更を要請します。
さらに、政府に「善き政府」であることを要求します。
さらに、選挙において「善き国会議員」を選出します。
根本が改善されない国は「不健全な政策が実施される→国民が抗議する」を繰り返します。
そうしたことを繰り返す国は政策の健全性を維持できないでしょう。
そうして、衰退するでしょう。
人の健康においても、製品の品質においても、政策の健全性においても、その根本がしっかり為されることによって保たれ、安定します。
根本を掘り下げていくと、ほとんどの場合、ひとりひとりの「善きあり方」に辿り着きます。何事においても「善き生き方」を実践する個人が根本になるということが分かります。
現代では、モノや社会の「構造」という根本に注目します。
「構造という根本」をよりよいものにする役割を担う者をアーキテクトと呼び、その「構造という根本」を作り直してモノや社会を大きく変えることをイノベーションと呼びます。
このことも、根本の大切さを再認識させてくれます。
道徳の根本に目を向ける意義
要素道徳の根本に目を向けて、その根本を実践すれば、要素道徳の意義は保たれ、安定します。
つまり、「善き生き方」の実践が安定して、確かなものになります。
それが、道徳の根本に目を向け、実践することの意義です。
本章では、有子は「孝」を道徳の根本とみなしました。
本ブログは「仁」を道徳の根本とみなします。
なぜ「仁」を道徳の根本とみなすのか、その理由を説明します。
人は先験的な価値観を持つ
進化論の学びは「人間とは何か」を考えるよい機会を与えてくれます。
「生物は、置かれた自然環境に上手く適応したものがより生存確率を高め、生き残る。置かれた自然環境は様々であり、その適応の仕方も様々である。長い時間をかけて世代を重ねることで、その適応の仕方の違いは、生き残った生物の特徴となり、その特徴の違いに応じて種は分かれてきた。」
そうした特徴の一つに「子供の産み方/育て方」があります。
たとえば、魚類の祖先は、卵で多く産み、産みっぱなしにするという特徴を持ちました。
哺乳類の祖先は、少ない子供をある程度育てて産み、その後も世話をするという特徴を持ちました。
哺乳類の中でも人類の祖先は、産む子供の数は少なく、大切に育てるという特徴を持ちました。
そして、それぞれの特徴によって自然環境に適応して生き残ってきました。
注意しなければならないのは、その違いに善悪はないということです。
どちらも「適応したので生き残った」というだけです。
そうした特徴は、意志によって獲得したわけではなく、たまたま獲得しただけです。
人類の祖先が、子供を少なく産み、大切に育てるようになったのはたまたまです。
たまたま得た特徴ですが、その特徴によって自然環境に適応し、長い時間、何世代もの間、生き残ってきたということが重要です。
つまり、人の設計図であるDNAに「子供を少なく産み、大切に育てる」が刻まれた者が生き残ってきたということです。
「子供を少なく産み」は身体の設計に反映され、「大切に育てる」は価値観の設計に反映されていると言えます。
DNAに刻まれた価値観であるということは、人が経験に先立って持っている価値観(先験的な価値観)であるということを意味します。
「子供を大切に育てる」は人が持つ先験的な価値観であると言えます。
先験的な価値観と「仁」
私は、そのような先験的な価値観が道徳の本質のひとつだと捉えたいと思います。
同様の推察から、「助け合う/協力し合う」などの類似の価値観も、人が持つ先験的な価値観であり、道徳の本質のひとつだと捉えたいと思います。
それらの価値観をもう少し洗練して、抽象度を上げてみましょう。
そうすると「人を思いやる/人を愛する:人類愛」という言葉が浮かびます。
論語の「仁」の意味を調べると「人を愛する(人類愛)」と解説されているものをみることがあります。
したがって、その先験的な価値観を「仁」とみなすのは、そう的外れなことではないと思います。
本ブログでは「仁」を次のように捉えます。
「仁」は、先験的な価値観に基づく価値観であり、その価値観に基づく実践である。
その価値観には次のようなものがある。
・人を思いやる
・助ける(特に、子供など立場の弱い者に対して)
・協力する
論語で使われている「仁」は様々な側面を持ち、様々な解釈があり、正しい解釈を特定するのは難しいので、本ブログでは、ブログの趣旨に従って、正しい解釈を追うことはせずに、この簡素な、主観的な解釈を採用します。
私たちは「仁」を大切にしている
「仁」は先験的な価値観だからといって、皆がいつもその価値観に基づいて行動しているとは限りません。しかし、様々な場面で「私たちは仁を大切にしているのだ」と実感することがあります。特に、自然災害の際にそれを実感します。
日本は自然災害の多い国です。
自然災害が起これば、私たちは被災地の人々の安全を願います。
そして、被災者を助けたい、災害復旧に協力したいという思いが沸き起こります。
そして、安全を確認して励ます、ボランティとして現地に赴く、寄付をするなど、自分の身の丈に合った行動をとります。
それは特別なことではなく、あたりまえのこと、としてそうします。
「そうした思いと行動」が、何世代も通して積み上げられ、継承されて、「あたりまえの価値観」を形成しました。それが「仁」であり、道徳の根本(本質)です。
私たちは、その「あたりまえの価値観」に従って行動する人々に共感します。
仁と孝
繰り返しになりますが、私たちは、生まれた時は無力です。
誰かに助けてもらわないと生きていけません。
私たちが今あるのは、そうして助けてもらったからです。
私たちが最初に触れる道徳は、その助けてくれた人たちによる「仁」です。
その中でも、通常は、「親」の「仁」は格別です。
その親からの格別な「仁」に応える要素道徳が生まれるのは自然です。
その要素道徳は、親からの「仁」に対する敬意を本質として持ちます。
本ブログでは、それを「孝」と呼ぶことにします。
孝と家庭道徳
本ブログは「孝」をそのように捉えますので、毒親に対しては、「孝」という要素道徳は生まれないとみなします。
それに対して、「孝」を「子から親に向けた一方的、かつ、絶対的な道徳であるべきだ」と主張する人がいるかもしれません。
本ブログはその考え方に同意しません。
なぜなら、子から主体性を奪ってしまう可能性があるからです。
主体性を奪われれば、ひとりの人間としての善き生き方ができなくなります。
家庭道徳も道徳の実践ですから、その根本は「仁」です。
家族間の「仁」、つまり、家族のひとりひとりが主体的に実践する「仁」です。
その根本が実践されれば、「孝」という要素道徳は、自ずと生まれます。
本章の「論語の果肉を味わい、楽しむ」はここまでとします。
最後に、取り出した「論語の果肉」を、行動を重視する孔子の意図を汲んで、実践を強調した教訓として表現し、訳を意識した形式でまとめます。
本章の教訓
何事においても、根本に目を向け、それを実践しなさい。
根本を実践すれば、意義が保たれ、安定し、自ずと道も開ける。
「仁」は道徳の根本のひとつである。
「仁」とは、人が持つ先験的な価値観とその価値観に基づく実践を言う。
それは、次のような価値観である。
・思いやる
・助ける(特に、子供など立場の弱い者に対して)
・協力する
要素道徳の実践においては、その根本である「仁」を実践しなさい。
そうすれば、要素道徳の意義は保たれ、安定し、道も開ける。
家庭道徳の実践においては、その根本である家族間の「仁」を実践しなさい。
そうすれば、家庭道徳の意義は保たれ、安定し、道も開ける。
自ずと、家庭特有の要素道徳も生まれる。
「孝」はそうして生まれる要素道徳のひとつであり、親の「仁」に対する敬意を本質として持つ道徳である。
そうした実践が、善き道徳の実践である。
今回はここまでです。