学而第一(4)を鑑賞します。
本ブログを初めて読まれる方は、第1回、第2回を先に読んで頂ければと思います。
今回のテーマは「自分の行動を省みる(反省)」です。
今回は、本章の鑑賞を通して、「自分の行動を省みる意義」について考え、「論語の果実」を見いだし、味わい、楽しみます。一緒に楽しんで頂けたら幸です。
学而第一(4)
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE
曾子(そうし)曰く、吾れ日に吾が身を三省す、
人のために謀(はか)りて忠ならざるか、
朋友と交まじわりて信ならざるか、
傳(でん)、習はざるか。
曾先生がいわれた。――
「私は、毎日、つぎの三つのことについて反省することにしている。その第一は、人のために謀ってやるのに全力をつくさなかったのではないか、ということであり、その第二は、友人との交りにおいて信義にそむくことはなかったか、ということであり、そしてその第三は、自分でまだ実践出来るほど身についていないことを人に伝えているのではないか、ということである。」
○ 曾子==孔子の門人、姓は曾(そう)、名は参(しん)、あざ名は子輿(しよ)。十六歳で孔子の門に入り、門人中の最年少者であつたが、篤学篤行の人として深く孔子に愛せられた。孔子の思想を後世に伝えた人としては門人中随一である。
○ 原文の最後の句「伝不習乎」を「伝えられて習わざるか」と読み、「教わったことを復習実践しない」という意味に解する説もある。
はじめに下村の訳を鑑賞します。
まず、「反省する」という言葉について少し補足しておきます。
ここでは、間違いを振り返る行為ではなく、間違わないようにすることを主眼に置いて、自分の行いを省みる行為を反省と呼びます。
曾子は弟子に向けて語っているのだろうと想像できます。
「こうしなさい」と指示、命令するのではなく、「自分はこうしている」とだけ語っています。聞き手の主体性を尊重しているからでしょう。
そうした曾子が伝えたかった教訓を一言で言えば、次の通りです。
「自分の行動を省みる(反省する)ことを習慣にしなさい」
そして、曾子自身はどのような行動を反省しているのかを示します。
・要素道徳「忠」の遂行
・要素道徳「信」の遂行
・学びの教訓の遂行
一言で言えば、「善き生き方」に関する行動を反省しています。
「善き生き方」は、孔子たちの関心の中心ですから、それは自然なことです。
ここからは、主観読みで鑑賞します。
本ブログの趣旨に従って「論語の果肉」を取り出して味わいます。
善き生き方という関心から自分の行動を省みるという習慣
私たちは、何か文章を書くとき、一通り書いた後で、誤字脱字がないか確認して、それらが見つかれば修正します。そうして文章の質を上げます。
何も確認しないときよりも、よく確認したときの文章の質が良くなるのは当然です。
そのような、自分の行動を振り返り、修正して、質を上げる、ということを、私たちは日常的に行っています。
こうした、成果物の質を上げるのも、広い意味での善き生き方と言えます。
本ブログでは、そのような広い意味での善き生き方を含めて、本章の教訓を見いだします。
教訓
善き生き方を実践しなさい。
そして、それが実践できていないことはなかったか、自分の行動を振り返りなさい。
そして、その振り返りを習慣にしなさい。
習慣にするなら早い方がよいでしょう。
その意味で、この教訓は、子供に対する躾に適した教訓と言えます。
教訓 躾
子供に善き生き方を教えなさい。
そして、それができていないことはなかったか、自分の行動を振り返るよう躾なさい。
そして、その振り返りが習慣になるよう躾なさい。
子供の頃に、こうした躾を適切に受けて、自分の行動を省みる習慣を身につけることができれば、良識の豊かな人間に育つだろうことは容易に想像することができます。
もちろん、善い習慣を身につけるのに遅すぎるということはありません。
大人になって身に付けても意義はあります。
善き生き方の基本中の基本
様々ある善き生き方の中から「何を省みるのか」が次の関心になります。
曾子は三つの例を挙げていますが、それはあくまでも曾子の関心によるものです。
習慣にするのですから「これが最も大切だ」という「善き生き方」を選びたいものです。孔子に質問したら何と答えるでしょうか。
実は、論語には、弟子の子貢(しこう)が孔子にそのことを尋ねている章があります。
孔子の答えに注目しましょう。
衛霊公第十五(24)
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE
子貢問ふ、曰く、一言(いちげん)にして以て終身之れを行ふ可き者有りや。
子曰く、其れ恕(じょ)か、己の欲せざる所は人に施すこと勿(なか)れ。
子貢がたずねた。――
「ただ一言で生涯の行為を律すべき言葉がございましょうか。」
先師がこたえられた。――
「それは恕だろうかな。自分にされたくないことを人に対して行わない、というのがそれだ。」
「恕の実践」というのが孔子の答え(教訓)でした。
下村は「恕」を次のように解説します。
「恕は自分の心を他におし及ぼすことで、真心からの同情による愛の実践という意。仁というに近い。」
つまり、「他者を思いやること」が要素道徳「恕」の本質です。
そして、典型的な恕の実践として次を挙げます。
「自分にされたくないことを人に対して行わない」
これに対して、「自分はされてもいいことは人に対して行ってもよいのか?」という疑問を抱く人もいるようなので、少し補足します。
孔子が説く教訓の本質は、要素道徳「恕」の実践にあります。
「自分にされたくないことを人に対して行わない」はその典型的な行為です。
だからといって、それが「恕」の全てなのではありません。
それを含めて「他者を思いやること」が大切なのです。
「自分はされてもよいと思っていることでも、他者が嫌がることはしてはならない」ということです。
「自分にされたくないことを人に対して行わない」という教訓は、キリスト教の世界では「黄金律(否定形)」として知られています。
古代から、世界のあちこちで、この教訓を見ることができると言われています。
この教訓は、古代から受け継がれている基本中の基本の教訓と言えます。
それを本章の教訓の形で示すことができます。
教訓
「恕:他者を思いやること」を実践しなさい。
「自分にされたくないことを人に対して行わない」などを実践しなさい。
そして、それを実践できていないことがなかったか、自分の行動を振り返りなさい。
そして、その振り返りを習慣にしなさい。
反省して「できていなかった」と気がついたときに取るべき行動
本章では、反省を習慣にするところまでしか語られていません。
しかし、実践を考慮すれば、反省して「できていなかった(道を外してしまった)」と気がついたときの対応まで考えておきたいものです。
論語には、その教訓が語られている章があります。
学而第一(8) 一部抜粋
書き下し文:『論語 (漢文叢書)』WIKISOURCE
過てば則ち改むるに憚(はばか)ること勿れ。
人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ。
この教訓を織り込んで本章の教訓が完成します。
教訓
善き生き方を実践しなさい。
そして、それが実践できていないことはなかったか、自分の行動を振り返りなさい。
そして、その振り返りを習慣にしなさい。
もし、それが実践できていないことに気がついたら、速やかに改善しなさい。
躾の教訓にも同様に織り込んでみましょう。
子供には、まずは、道徳の基本中の基本の「恕」を身に付けてもらいましょう。
教訓 躾 恕の実践
「恕:他者を思いやること」が人として大切なことだと教えなさい。
「自分にされたくないことを人に対して行わないこと」などを教えなさい。
そして、それができていないことはなかったか、自分の行動を振り返るよう躾なさい。
そして、その振り返りが習慣になるよう躾なさい。
もし、それができていないことに気がついたら速やかに改善するよう躾なさい。
謝罪が必要なときは、速やかに謝罪して関係を修復するよう躾なさい。
その謝罪が上手くできるよう謝罪の仕方を教えておきなさい。
こうした躾が子供達に行き渡れば、学校での虐めも少なくなるのではないでしょうか。
モノ作り企業の振り返り
自分の行動を振り返り、修正して、質を上げる、ということを私たちは日常的に行っています。そのことは、個人だけでなく組織にも言えます。
モノ作りをする企業では、製品は様々な工程を経て製造されます。
その中には、活動の振り返りを行う「レビュー:Review」という工程があります。
製品設計における「デザインレビュー」という工程が最も知られています。
デザインレビューは、目標とする設計品質を確保するために、設計の活動を振り返る工程です。
デザインレビューは次のように行われます。
まず、設計者は自分の設計の取り組みを振り返り、設計品質が十分確保できていることを確認し、それをデザインレビューの場で報告します。その報告をする者を(レビューイ:reviewee)と呼びます。
その報告に対して、その製品に関わる第三者が、それぞれの視点から、設計者の取り組みとその成果物の妥当性を審議します。その審議する第三者を(レビュアー:reviewer)と呼びます。
審議は設計品質を確保する上で不十分な点がないかを探すことが主眼になります。
したがって、批判的な目で見て、欠点や懸念点を指摘する行為が基本になります。
それは、「設計者も見落とすことがある(誤る)」という前提の下、そのリスクを低減するための第三者の支援という意味も持ちます。
「良い製品にしたい」と強く思っている人たちが審議するのですから、批判の目が厳しくなるのは当然です。そうした厳しい審議を経るからこそ良い製品が生まれます。
審議の結果、取り組みの質が低い、成果物の質が低いとみなされた設計者は批判に晒され、炎上することもあります。
そのことを恐れて、デザインレビューを嫌がる設計者もいるのが現実です。
デザインレビューの主旨を理解している善い設計者はそのような炎上を恐れません。
善い設計者は、自分の設計の取り組みをきちんと振り返り、設計品質が十分確保されていることを確認し、それを報告します。
そして、至らない点はないか第三者に批判的に見てもらい、改善すべき点を指摘してもらいます。
そうして明らかになった必要な改善を加えて、設計品質の確保をより確かなものにするよう努めます。
組織は、そのような「善き設計」のための「振り返り」を「常態化」するために、デザインレビューという工程を設定し、守らせます。
善きモノ作り企業は善きデザインレビューを実践しています。
重要法案の国会審議
法律作りもモノ作りと同じです。
善き法律を作る国会は善きレビューを実践しています。
国会の法案審議、予算審議はレビューです。
基本的に、法案を提出する政府はレビューイです。
野党はレビュアーの立場で審議します。
野党は、批判的な立場から問い、欠点や懸念点を指摘します。
その質疑応答を繰り返して、場合によっては法案を修正して、法案の質を高めます。
国民の生活に大きな影響を与える法案は、重要法案として扱われ、審議の様子が中継されます。
皆さんはその重要法案審議の国会中継を観たことがあるでしょうか。
「ひどいレビューだ」というのが私の率直な感想です。
答弁においては、質問を無視して関係のないことを回答したり、自分たちは間違わないと開き直ったり、データや公文書を改ざんしたり、・・・。
質問者の中には、時間が余ったからといって般若心経を唱えるという前代未聞のことをする者までいました。
このようなことが企業で行われていたら、その企業の業績が傾くのは必然です。
国も同じです。
国会の劣化は国会議員の劣化によるものですが、その根本は、そのような政治家を国会議員に選出した有権者の劣化(民度の低下)にあります。
その根本が変わらなければ国会の劣化は改善されません。
国会審議に関わる民度を低下させる巧言がありますので注意しましょう。
「野党は批判ばかりするな」という主張です。
「批判の質を上げよ」という主張ではありません。
批判そのものをやめさせようとする主張です。
野党はレビュアーの立場で法案を審議する役割を担います。
法案を良いものにしたい、良くない法案は通したくない、という強い気持ちがあれば、批判はより強くなります。
したがって、「批判ばかりするな」という主張は、国会審議におけるレビューの意義を損なう主張であり、的外れな主張です。
巧妙なのは、その主張を「野党も提案をしろ」という主張と合わせて主張することです。
審議する側のレビュアーが提案することは珍しくありません。
よりよいものになる提案であれば、それは結構なことです。
しかし、それを利用してレビュアーの本来の役割を妨げるような主張をするのなら、その主張は、レビューの意義を損なう巧言です。
少なくとも重要法案に対しては、政治家に任せるだけでなく、主権者である国民も、レビュアーの立場で(間接的に)国会審議に参加して、よりよい法案になるよう支援するべきでしょう。「批判ばかりするな」という巧言に騙されずに、批判的な目でその法案を見て、欠点や懸念点がないかを確認するべきでしょう。
そうした多くの人々のレビューによって、良い法案が通過し、良くない法案は改善され、場合によっては廃案になり、良い社会がもたらされます。
それが民主主義/主権在民における善きあり方です。
最後に、取り出した「論語の果実」を、行動を重視する孔子の意図を汲んで、「実践を強調した教訓として表現」し、「訳を意識した形式」でまとめます。
本章の教訓
特に大切にすべきだと思う要素道徳、教訓に注目しなさい。
そして、それが実践できていないことはなかったか、自分の行動を振り返りなさい。
そして、その振り返りを習慣にしなさい。
もし、それを実践できていないことに気がついたら速やかに改善しなさい。
それが善き生き方の実践のひとつである。
組織においては、組織の活動を振り返る工程(レビュー)を設けなさい。
そして、その工程(レビュー)を常態化しなさい。
組織の成員は、その工程(レビュー)に真摯に対応しなさい。
そして、その工程(レビュー)で、改善すべき点が見つかったら速やかに改善しなさい。
それが、善き組織の実践のひとつである。
今回はここまでです。